1 バッテリー・パーク ユニオン・スクエア



ご存じ自由の女神(本物!) 下写真のフェリー乗り場から、ズームを凝らして撮影している


 
リバティ島行きのフェリーには朝から行列 チケットは右写真奥のクリントン城で購入する


振り返ると、ワン・ワールド・トレード・センター(アンテナのある建物)


花の都パリの町歩きも、10回やってテーマが枯渇してきたところだったので、ぼちぼちメジャー都市シリーズに拡張させようかな。それならメジャー中のメジャー、都市の中の都市というべきニューヨークNew York)を歩いて見よう。多くの人が憧憬し、夢を見る世界の都なんだろうけど私はほとんど関心をもったことがなく、したがってどこに何があるのかとか、そこがどういう地区なのかという初心者レベルの知識すら怪しいのです。超・田舎者のおのぼりさんツアーみたくて、かえっておもしろいかもしれない。

2019810日(土)は晴天。今回はマンハッタンの中心部に近い36丁目に宿泊しています。マンハッタンは基本的に条里構造で、南北方向にAvenue(○番街と訳)、東西方向にStreet(○丁目と訳)が走ります。いちばん北が215丁目なので滞在は南寄りではあります。9時半ころ、そこから地下鉄に乗って島の南端、バッテリー・パークBattery Park)にやってきました。

  
自由の女神たち (左)パリ セーヌ河畔のものはNYの返礼として革命100周年に在仏アメリカ人により贈呈 (中)パリ リュクサンブール公園 NY像の原像として作成されたものだがレプリカに替わった (右)東京・お台場 1998年の日仏修好150周年に際しセーヌ河畔のものが半年間設置され、その後レプリカが製作された


自由の女神像Statue of Liberty 正式にはLiberty Enlightening the World)はアメリカ独立100周年を記念して、独立を支援し、何だったら「俺たちのおかげで独立したんだぜ」くらいのことを考えぬでもない?フランス人たちが募金を集めて製作し贈りました。モデルはドラクロワの「民衆を導く自由の女神」、そのまたモチーフはフランス共和国の理念を具象化した「マリアンヌ」です。Enlighteningには「啓蒙」という含意があります。長い船旅の末にNY港でこの像を見て、新天地を実感するという場だったらしい。ただ移民の審査もこの付近(エリス島)でおこなわれたため、ここから出身国に送還される人もあったわけですね。像はリバティ島(Liberty Island)にあり、フェリーで渡らなくてはなりませんが、今回はそこに時間をかけずに遠望するだけ。朝っぱらから結構な行列ができています。女神さまにぜひよろしく。

 



ニューヨーク マンハッタン島の概念図
垂直に描いた道路は七番街(左)と五番街 島内の街路は大半がこれらと直交または
平行に走っているが、都市計画以前からの道路ブロードウェイ(太線)は
島の北端近くから南端近くまで斜めに貫いて走っている


世界的大都市であるニューヨークは地形的にとてもユニークな場所に立地しています(左図参照)。市の中心となるマンハッタン島Manhattan Island)は基本的にはハドソン川河口の中洲なのですが、右岸(西側)のニュージャージーが大陸の一部であるのに対し、左岸(東側)のクイーンズ区、ブルックリン区があるところはロングアイランドという東西方向に200km近くもある大きな島の西端で、まるでその島が大陸にぶつかった破片がマンハッタンになっているような感じ。マンハッタン島そのものの南北の長さは20kmくらいです。今回は南端から北に向かって「縦走」に挑戦しましょう。といっても全部は無理なので、約3分の2にあたる、セントラル・パーク北辺付近を北限にします。

 
(左)ブロードウェイを北に向かって歩く (右)国立アメリカン・インディアン博物館


条里構造をもつ道路たちをなぜか大胆に斜めに横切って、島の南北を貫通しているのがブロードウェイBroadway)。直訳すると「広い道」。先住民の時代から自然に存在した道らしく、おそらくは島内で相対的に小高く、水はけのよいようなルートが踏み固められたものでしょう。完全な条里構造だと方向感覚を失ったとき前後左右を誤る可能性がありますが、ブロードウェイの存在はそれを回避してくれます。この道を目印にして北上すれば、だいたい地図は要りません。

マンハッタン島の南端部分、下マンハッタン地区(Lower Manhattan)は自由の女神以外にも見どころがいっぱいありますので、さっそく歩きはじめましょう。さすがマンハッタンというべきか、いきなり道路の両側に高層建築が密集して壁をなし、進路のほとんどを日陰にしてくれています。前日まで滞在した首都ワシントンD.C.はどこでも道幅が広く、中心部には大規模なグリーン・ベルト(「モール」)などもあって日なたしかない町でした。暑くて消耗しましたので、いつもの私の感覚とは逆に、空が狭いことのありがたさよ。




 
世界金融の中心 ウォール街

 

 
(左)フェデラル・ホール (右)ニューヨーク証券取引所
星条旗が半旗になっているのは、前週に起こった連続銃乱射事件の犠牲者を悼むため

 ワシントン像

 

 NY連銀ビル


歩きはじめのところに黄金のばかでかい牛の像が置かれていて、50人くらいが記念撮影待ちの行列をなしていました。さしてカワイくもないけれど、付近にはグッズを売る露店もあるし、行列するくらいなので有名なんでしょうね。と、この程度の知識しかない初心者の私。チャージング・ブル(Charging Bull)という彫刻作品で、1987年のブラック・マンデーのあと米経済の上昇を願って製作され、ゲリラ的に置かれたものが常設化されたのだそうです。へえ。

 チャージング・ブル


ということで、その先が名高いウォール街Wall Street)になります。ロンドンのシティ、東京の兜町と同じような証券街ですが、その取引量と影響力は圧倒的で、世界の金融・証券取引の中心といって過言ではないでしょう。歴史の教科書でおなじみの世界恐慌は、192910月、ウォール街大暴落(Wall Street Crash)と呼ばれる、例を見ないような株価急落を機にはじまりました。その舞台にもなったのがニューヨーク証券取引所New York Stock Exchange)。貫禄のある建物ですが、高層建築に囲まれて窮屈そうです。そのはす向かいにフェデラル・ホールFederal Hall 連邦公会堂)。アメリカ合衆国憲法が発効して、最初の連邦議会が設けられた場所です。初代大統領ジョージ・ワシントンもここで選出されました。歴史の教科書にも書かれないことが多いのだけど、合衆国の首都は初めここニューヨークに置かれ、1790年にフィラデルフィアに移転しました(1800年にワシントンD.C.に再移転)。現在の建物はその当時のものではありません。独立戦争の英雄にして初代大統領であったワシントンのりりしい像が置かれています。

きょうは土曜なので観光客の姿しかありませんが、いろいろなドラマがあるのでしょうね。中国人の団体がそのあたりを取り巻いており、反共産党的な在米華僑の団体がチラシを配ったりして活動中で、当方にも中国語で話しかけてきました。I am not Chineseといったら了解して、それでもチラシの受け取りを強要しようとします。かかわりたくないねえ。

2ブロックほど北に進むと、ニューヨーク連邦準備銀行Federal Reserve Bank of New York)の重厚な建物があります。「中央銀行の金融政策」というのは、私がよく公民の授業のお手本として演示する十八番なのだけど、中央銀行という概念は17世紀のスウェーデンが元祖、ナポレオンのフランスが今日的な意味での発端で、民間経済がうまくいっていた英国とアメリカは当初それを必要としていませんでした。アメリカの場合、州権の主張や経済圏が広かったこともあって、連邦政府がしばしば金融への関与を強めようとしますがうまくいかず、のちに分権性と適度に折り合って、独特の中央銀行制度ができました。全米に12の連邦準備銀行があり、それらで成り立つのが連邦準備制度。一般に日銀などと並べて中央銀行の扱いを受けるのはワシントンにある連邦準備制度理事会Federal Reserve Board :FRB)です。現在の議長はパウエル氏。トランプが任命したのですが政権と同調しないためツイッター攻撃を受けることもあります。FRBの真骨頂は中立性ですからね。ニューヨークの連銀は12行の中でも突出した影響力があり、連邦準備制度の要をなします。



ワン・ワールド・トレード・センターと貿易センター・ビル群

 
グラウンド・ゼロ (左)ワールド・トレード・センター南棟跡 (右)北棟跡

 


土曜の昼とあってかガイド・ツアーが何組もあった


連銀ビルから西に進み、ブロードウェイを横切って3ブロック行くと、自由の女神とは別の意味でニューヨークの象徴たる場所、ワールド・トレード・センターWorld Trade Center :WTC)のビル群が現れます。ニューヨークのイメージといえば今も昔も摩天楼(skyscrapers 超高層ビル群)です。私の親世代などにとってはエンパイア・ステート・ビルでしょうが、私を含む昭和後期生まれの世代には何といってもWTCの中核をなすツイン・タワーでしょう。摩天楼群の中でも際立つ高さとスマートなフォルム、そしてそれが2棟並んでいるところがカッコよかった。周知のように、現地時間2001911日午前9時前後に、南棟つづいて北棟にハイジャックされた旅客機が突っ込み、いずれもまもなく倒壊しました。両棟の跡は方形の噴水池になっていて、へりの部分に犠牲者の名が刻まれています。この2日前にワシントンで見たヴェトナム戦没者慰霊碑にも多くの固有名詞がありましたが、両者の性格の微妙な違いもあって、どう考えてよいものか混乱してきました。


あれから18年、もう高校生・大学生でも直接知らない世代・・・
おとなの語る記憶は、はたしてどのように伝わるのか


事件の第一報は、日本時間1122時からのニュース番組でただちに伝えられました。そのころはインターネットも常時接続にしておらず、夜は「ニュースステーション」を観るのが日常で、「ありえない」としかいいようのない映像にただ茫然としていました。

跡地はグラウンド・ゼロGround Zero)と呼ばれます。テロはとんでもないが、怒りに任せたブッシュ米政権が暴走し、それに日本の小泉政権も追随したのは許しがたかった。小泉首相は倒壊したビルの残骸を前に「ハート・ブレイキングだねえ」などといつものワン・フレーズを吐いていたけれども、何なんだろうね。旅客機による例のない攻撃はツイン・タワーだけでなく、周辺のビル群もことごとく崩壊させました。その後、超高層を1棟にしぼった再建案が出されて、2014年にその中核たるワン・ワールド・トレード・センターOne World Trade Center)が開業。アンテナ部分を含めて541mは全米一で、独立年にちなむ1776フィートに相当します。当初「フリーダム・タワー」の名で建設が進められたものの、旧北棟と同じ名称に落ち着きました。ブッシュが「フリーダム」などと口走るたびに虫唾が走りましたので、まあ現在の名前でよかったと思います。



 
市庁舎と市庁舎公園 ビル街のオアシスになっている

 
(左)郡裁判所 (右)フォーリー広場から南側を望む


再びブロードウェイを渡り、WTCの北東側に進むと、緑に包まれた小さな公園がありました。大した知識もないまま歩いているので、知らないスポットが続々と現れます。ここは市庁舎公園(City Hall Park)で、奥に見える白亜の建物はニューヨーク市庁舎City Hall)とのこと。首都でホワイトハウスや連邦議会議事堂など、いかにもアメリカらしい建物を見てきたところですが、この市庁舎はルネサンス風というわけでもなさそうで、横浜あたりにも残っていそうな仕様。建築学科2年生の担任ではあるがその分野には寸分の知識もないので、由緒書きを頼ることにしましょう(汗)。「ニューヨーク市庁舎は180312年にかけて建設された、市庁舎として現在もひきつづき使用されているものとしてはわが国でも最古のもののひとつであり、市長および市議会のオフィスが入居している」(拙訳)。え、現役なの! すごいな〜。フランスから移民してきたジョゼフ・マンガンと生粋ニューヨーカーのジョン・マッコム・ジュニアの手になるもので、建国時代に好まれた連邦様式(Federal Style)ですが、フランスの明瞭な影響が随所に見える、そうです。へえ。

その東側には、ペース大学(Pace University)などの文化的な建物のほか、警察署、郡(カウンティ)の裁判所などの公共施設が並んでいました。建物に囲まれたフォーリー広場(Foley Square)という区画はイベント・スペースになっていて、何かの音楽が大音量で演奏されており、ダンキンドーナツがスポンサーになった児童の仮設遊戯施設などもあってにぎやか。ソーホー方面にかけて道路を自転車専用に開放しているらしく、かなりの人数が思い思いに転がしています。


 
 
NY中華街 下右に青天白日満地紅旗(中華民国の国旗)が映っていますね

 

 


裁判所の先を右折して2ブロック行ったところが中華街China Town)。ニューヨークの中華街に関する予備知識はまったくなく、朝ガイドブックをめくって、へえウォール街に近いのかと初めて認識した程度。足を踏み入れてみると、予想以上に広がりがあり、活気がありました。横浜の中華街はもう「中華料理店街」になってしまっていますけれど、ここは文字どおりに中国系住民の集住するエスニック・タウンですね。その点でロンドンよりパリの中華街に近いかもしれない。ただこちらのほうがずっと大規模です。道を歩く人が明らかに東アジアの顔ばかり。正午が近くなっていて、中華料理店も呼び込みをはじめていますが、横浜のようにイチゲンの観光客がイベント的に食事するというよりは、地元のおばちゃんたちが「さあお昼にするかね」と出かけるような感じが見えます。ドラッグ・ストアや衣料品店、雑貨店なども中華仕様で、英語表記がまったくないところも多い。ただ、ところどころにコテコテの土産物店があって、そこには中華色がなく、どことも同じようなTシャツやペナントを売っている(ただし華僑の経営)というのがおもしろい。

 


 

 

 


中華街の北側がリトル・イタリーLittle Italy)。こちらも同様にイタリア系住民の集住するエスニック・タウンですが、20世紀半ばあたりから集住傾向は薄らいでいて、リトル・イタリーも縮小しつつあるとのこと。顔立ちを見てイタリア系アメリカ人とそれ以外とをはっきり見分けるセンスは私になく、たくさん歩いている人の誰が地元で誰がヴィジターなのか判然としません。ただイタリア料理店の大半は明らかに観光仕様で、この地区にイタめし食べにきました〜というような客層が見えます。きょうは昼抜きの日なので「素振り」のつもりで店頭のメニューをのぞき込んでは、店員が「ウチは美味しいよ。どうですか」と話しかけてくるというのを数回。和食がブームだとかいうけれど、世界的に見て最もポピュラーなのは中華料理とイタリア料理です。中華街でなくても中華料理店はどこにでもあるのと同じで、リトル・イタリーでなくてもイタリア料理店はどこにでもあるのですが、リトル・イタリーの味はどうなんでしょうかね。そういえば、私はピザを好んで食べるということはないのだけど、ピッツェリアを看板に掲げる料理店(実は普通のイタリア料理店)はパリにでもどこにでも普通にあります。ピザは、どちらかといえばアメリカ人が好んで食べるイメージで、おそらくアメリカの商業文化に乗って世界化した食べ物なのではないかと思う。


イタリアからアメリカへの移民は、イタリア国家が形成された19世紀半ば以降に加速しました。いまでもそうなのですが、国の南北など地域格差がひどく、近代国家を樹立したはよいがそのとき西欧はすでに産業革命後の大競争時代だったためイタリアの後進性は否めませんでした。北米に夢というか局面打開の可能性をみて渡米した人たちは、ニューヨークを中心とするメガロポリスに多く住むようになります。故ジャイアント馬場の盟友で、「MSGの帝王」としてWWWF王者に長く君臨した「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ(2018年死去)がイタリア出身で、イタリア系住民の支持を盛んに受けていたことが思い出されます。



ソーホー付近

 
 
ソーホーを抜けたあたりにグレース教会(右)


リトル・イタリーからしばらくは、ブロードウェイを目印にしながら北上します。ここから数ブロックはソーホーSoho)と呼ばれる地区。東西に走るハウストン通りの南側、South of Houston Streetということらしいですが、おそらくロンドンの中心部にあるソーホー地区を模倣した地区名でしょう。ロンドンのほうは歓楽街ですがこちらはブティック街。かつてアーチストたちが好んで住んだ地区ゆえのハイセンスな雰囲気を十分に取り込んでいます。ちなみに香港のソーホーはSouth of Hollywood Road、コンセプトとしてはロンドンとニューヨークの中間くらいで、おしゃれな飲み屋街です。お、これで三都市のソーホーを完訪しましたね!

マンハッタンはどこでも高層建築なのかと思ったら、当たり前ですがそんなことはなくて、中華街→リトル・イタリー→ソーホーと、いずれも山手線の外側とさして変わらぬ建物の高さ。ソーホー地区にはキャスト・アイアン(Cast- Iron architecture)という建築様式が多く見られます。鋳鉄で頑丈かつ装飾性に富んだ外枠を構成する工法、だそうですがしくみはすみません(汗)。なるほど、外壁の柱や窓枠の部分ががっしりとなぞられているのがわかります。


ブロードウェイを北に歩くと、グレース教会(Grace Church)が見えてくるあたりで駅前商店街のような感じになってきます。ユニオン・スクエアUnion Square)という小ぶりの広場、というか公園があるので、そこで小休止。歩きっぱなしなので少し足を休ませましょう。





*アメリカ合衆国を取り上げる企画ではありますが、数値に関しては日本人がピンときやすいように、ヤード・ポンド法ではなくメートル法、華氏ではなく摂氏、12時間制ではなく24時間制で記述しています。
*この旅行当時の為替相場はだいたい1ドル=106円くらいでした。

PART2へつづく

 

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