2016年の年末はどういう風の吹き回しか、欧州ではなくかつて長く欧州の植民地だったところに向かいます。12月26日(月)の早朝5時前に、わがANA機は香港国際機場(Hong Kong International Airport)に着陸しました。1日を長く使えるかなというので羽田を午前1時過ぎに飛び立つ深夜便を選んだのだけど、これはいかんな。欧州に行くときには12時間かかるので飲酒+読書+テレビ視聴+睡眠でも存分に持て余しますが、香港までは5時間弱なのでいつもの寝床での「睡眠時間」よりも短いじゃん。時差マイナス1時間で、現地の4時前には「朝食」が出てくるのも余計な感じがします。ともあれまずは入国審査。香港は主権国家としては中国に属しますが、法律・制度・通貨・言語ならびに表記法のいずれも別扱いで、そもそも中国本土とのあいだに国境があります。現在の国際的な地位は中華人民共和国香港特別行政区(中華人民共和國香港特別行政區 Hong Kong Special
Administrative Region of the People’s Republic of China)と称する独立区画。1997年に英国から中国に「返還」されたことを知る人はしばしば、沖縄県が1972年に日本本土に復帰したようなイメージで捉えてしまうのですが、誤解を恐れずにいうなら「英国の植民地」だったのが「中国の植民地」に変わったようなものです。いまのところ。
来たぜ香港!
そんなわけで入国といわず本当は入境と呼称するのだけど、中国から香港特別行政区に入るとかその逆ならともかく、日本からの直行便で行けばどこかしらに「入国」することには違いありません。ただ、「入境」の手前で右に曲がると、そのまま中国本土(「内地」と表現。英語ではMainland)あるいはマカオ(「澳門」)に向かうフェリーに乗り継ぐこともできます。いわゆるトランジットの扱いで、ここではなくそれぞれの境目で「入国」ないし「入境」の手続きをすることになります。当方は直進して入境審査。残念なことにスタンプの押印を廃止しているらしく、旅券上に入国の証拠が残りませんでした。機内で書いた2枚綴りの入境票の1枚目が切り取られ、2枚目が戻されます。これが出国の際に必要な書類になるそうです。その他に「訪客
批准逗留至2017年3月26日」と書かれた記念切手サイズのシートが発券されました。私の旅券ナンバーなどが記されており、これがスタンプ代わりになるのでしょう。ビザなし滞在は3ヵ月間認められます。
当たり前ながら表示が漢字だらけなので外国に来た感じがしない。香港は繁体字ですのでなおさらです。国際機場は特別行政区最大の島であるランタオ島(漢字表記は大嶼山
ダーイユーサン)の北側を埋め立てて造られました。元の香港空港(啓徳空港)は市街地のすぐそばにあり、離着陸に際してビルなどに囲まれた窮屈な空間を急旋回する離れワザが必要だったため、英国の総督府が返還前最後の事業として新空港を造営しました。私が1991年にトランジットで利用したのは旧啓徳空港でしたので新空港は今回が初。市街地からの距離が遠くなったため、機場快線(Airport
Express)というアクセス鉄道を同時に開業しました。九龍(Kowloon)を経て、香港島の、というか特別行政区全体の中心部にあたる中環地区に設けられた香港站(站は駅のこと)まで24分で結びます。到着ターミナルに隣接した駅に行ってみたら始発は5時54分とのことで、ターミナル内のカフェでコーヒー飲みながら待機。これなら深夜便で無理に朝食?なんて出さず、空港で使える朝食券でも配ったほうがいいのではないですかね。
空港内にあった鉄道路線図 国際機場は赤丸部分 機場快線は島づたいに九龍半島に渡り、
ヴィクトリア・ハーバーを海底トンネルで抜けて中環の香港駅(黄丸)に向かう
香港駅までの運賃はジャスト100 HK$で、自動券売機に紙幣を差し込んだら硬いICチップ型のチケットが発券されました。1500円くらいなので距離(約35km)を思えばさほど割高とは思えませんが、香港の相場ではかなり高いらしく、そのせいでなかなか利用客が増えなかった時期がありました。バスでもかまわないけれど、今回この空港を利用するのは到着時だけなので、ここはやっぱりアクセス鉄道を使ってみないとね。ホームまで段差なしで行けるのは立派。機場站も香港站も全面式のホームドアに囲まれているため、肝心の車両を観察できなかったのは遺憾です。ヴァリデーション(切符の有効化)をしてくださいと券面に見えるもののタッチすべき機械が見当たりません。その手のものはわかりやすく設置されているはずなのですが、きょろきょろするうちに列車が入ってきたのでそのまま乗ってしまいました。香港站の自動改札で初めてタッチしたところ問題なく抜けられたので、到着時はそういう段取りなの? 車内はゆったりとして座席も上々。アクセス線としてはいいレベルなのではないかな。
機場快線の車内とチケット
香港站に着いて前述のように自動改札を抜けました。ここから遠くないはずのホテルに荷物を預けてしまって、午前いっぱいを使って香港探険をしましょう。が、交通達人の私としたことが最初でまごまごしてしまいます。ホテルの方向に抜ける通路が、構内案内図では描かれているのに実際の案内表示には見当たらないのです。15分くらい行ったり来たりして失敗に気づきました。ホームに降りて目の前の自動改札をそのまま抜けてしまったのだけど、有料区画でつながっている地下鉄連絡通路に入り、数ブロック先の地下空間に出なければいけないのでした。ただ香港站、あるいはその後に利用した地下鉄の駅などもそうなのですが、ABCといった方面別に案内していながら、しばらく歩くとその表示が途切れてどちらに進めばよいかわからなくなります。ユーザーそれも初訪者の視点に立った表示が、国際都市にはぜひとも必要ですよ小池知事。
香港中心部は噂にたがわず立体空間で、道路を横断できる箇所が少なく、基本的には屋根つきのペデストリアン・デッキか地下道で移動します。空中回廊はビルを突っ切ったりしているので、これも初心者にはなかなか難しいね。どうにか駅周辺を脱出して東西のメイン・ストリート徳輔道(Des Voeux
Road)に出ました。デ・ヴーというのはフランス語っぽい表記で、19世紀末に香港総督を務めた英国人の固有名詞である由。地図を見ながら歩くのはしゃくなので、およその位置関係を事前に入れ込んでから歩いているのだけど、回廊に上ったり下りたりしなければならないのと、徳輔道より南側の道路が思いのほかごちゃごちゃしていたので、ちょっと迷いました。真冬の東京から来ていてコートを着用したままなので汗ばんできます。
香港站付近はよろず立体構造 空中回廊を何度か曲がって、徳輔道に出てきました
本当は奥に見える回廊をそのまま山側に進めば段差最小でホテル方面に行けたのです
ようやく威霊頓街(Wellington Street)に面したホテル・バタフライ・オン・ウェリントン(Hotel Butterfly on Wellington)にたどり着きました。7時過ぎなのでチェックインはできまいな。1階(香港の数え方は欧州式で、日本でいう2階)にある上品なレセプションに通ると、若い男性ホテルマンが英語で応対してくれました。「予約されたものより少し高くなりますが、別のお部屋ならいますぐチェックインできます」とのことでしたが、「少し高い」の程度がよくわからないので、結構ですということにして、サインインと支払いをこの段階で済ませ、キャリーバッグとコートを預けました。身軽になって、さあ探険探険。香港の市街地は、ホテルのある香港島北岸と、ヴィクトリア・ハーバー(維多利亞港 Victoria Harbour)をはさんだ対岸の九龍半島先端部にかけて広がっています。中環(Central)と呼ぶホテル周辺はあとで歩くことにして、まずは地下鉄で対岸の九龍半島に渡り、あちら側を見ることにしましょう。市街地の北辺にあたるらしい旺角(Mon Kok)まで行き、そこから南に歩いて戻ってくれば九龍側の全体像を把握できそうです。
海底トンネルで九龍側に向かう地下鉄は荃湾綫(Tsuen Wan Line)で、機場快速を降りた駅とつながっている中環站から乗車できます。威霊頓街を歩いてみたら、7時半なのであまり人は歩いていないけれど、軽食堂のたぐいは営業していてけっこうお客もいます。早め出勤のサラリーマンの姿もちらほら。中環站のある徳輔道と威霊頓街は3ブロックを隔てて東西に並走しているのですが、後者がビルにして2階ないし3階ほど高いところを通っていて、さらにその南には急斜面が待っています。噂に聞いたとおり香港島北岸は急斜面に高層建築が密集するという、ちょっと他では見かけない景観になっていて、朝っぱらから感心するわね。そして、威霊頓街は飲食店などの並ぶ道路、徳輔道は銀行やブランドのショップなどが並ぶいわゆる表通りで、見た目がまるで違います。新宿とか八重洲あたりの表と裏を連想してもらえればだいたいそんな感じ。当然のことに(当然なのか?)欧州の都市よりも東京のテーストにかなり近いものがあります。
朝の威霊頓街 垂直に張り出した看板がいかにも香港らしい
皇后大道(Queen’s Road)を経て、HSBC(滙豐銀行)の巨大な本店ビルなどが建ち並ぶゾーンに出ます。HSBCといえば世界的な金融グループで、とくに英国での出店が多いため(現在のホールディングスの本拠はロンドン)、英国滞在時にはポンドのキャッシングでしばしば世話になっています。もともと香港上海銀行(Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)として設立された、いわば英国の東アジア支配のための銀行でした。歴史的な経緯から、いま財布に入っている香港ドル紙幣の発券権をいまだに有しています。その他に中国銀行(香港)とスタンダードチャータード銀行が発券銀行。中央銀行が発券権を独占しないスタイルはまさに英国式で、興味深いですね。3年前に訪れた英国の北アイルランドでは、ポンド紙幣を隣国アイルランド共和国の民間銀行であるアイルランド銀行が発券していて、ありゃりゃと思ったものです。なお香港ドルは米ドルのカレンシーボード制により運営されています。ざっくりいってしまえば「ドル本位制」のようなもので、米ドルに対して変動幅のほとんどない実質的な固定レートでペッグされます。したがって円高・米ドル安であれば自動的に香港ドル安になり日本からの旅行に有利。ちょっと前までわりに円高だったのだけれど、11月によもやのトランプ大統領当選ということになり、市場も状況を読み切れずに乱れて、年末の段階ではなぜか円安の方向に振れています。
華やかな中環地区の「表」
地下鉄中環站は香港島最大の拠点駅でもあるので、構内は広々しています。機場快速、それと同じ線路を走る東涌綫(これらは郊外鉄道線)と、香港島内のみを走る地下鉄の港島綫がここで接続しています。いま香港の鉄道は郊外鉄道も地下鉄もMTR(Mass Transit
Railway 中国語では港鐵)が一元運営。MTRは民間の株式会社(有限公司)ですが依然として香港政府が大株主になっています。一日乗車券もあるのだけど、使用範囲がどこまでなのかよくわからないこともあって、香港人なら誰でももっている八達通(Octopus)を買おう。自動改札に隣接する客務中心(service center)でワン・オクトパスといったら即座に手渡されました。デポジット50 HK$を含んで150 HK$。カードを返却すればデポジットは戻ってきますが、たぶんまた来ると思うので外貨財布にそのまま入れておくことにします。地下鉄はパリとは違って均一運賃ではありません。旺角までは11.9 HK$(オクトパス使用時。現金購入だと13.5
HK$)で、高いのか安いのか相場感がいまいちわかりません。単純な距離制ではなく、海底を抜ける場合には割増しになるらしい。
地下鉄荃灣綫で旺角に向かう つり革の位置が興味深い
荃湾綫はここ中環站が起点で、次の金鐘(Admiralty)まで香港島を走り、その先で海底トンネルを通って九龍側に渡り、特別行政区北西の荃湾が終点です。通路もホームもずいぶん清潔で、車内ともども全体にメタリックな色調なので未来都市っぽくもあります。ごちゃごちゃ、雑然とした町の景観なので大阪の地下鉄のような感じを想像していたら全然違っていて、東京よりもはるかにスマートじゃんね。車内アナウンスは自動放送で、広東語・普通話(中国の標準語)・英語です。英語ならわかるといったところで、元来が広東語である固有名詞を聞き取るのは至難の業だから、今回はひたすら文字情報に頼ることに決めています。15分ほどで旺角に到着。ヴィクトリア・ハーバーを潜り越すこの路線が開通したのは1982年、それ以前には双方の往来をフェリーに頼っていたそうなので、建設効果は大きいですね。ずっとトンネルなので、いつの間にか対岸に来てしまうというくらいの感覚です。
いま乗ってきた荃湾綫が走っているのは彌敦道(Nathan Road)の地下。ネイザン・ロードといえば九龍というより香港そのもののメイン・ストリートと目されるところです。中央分離帯を備えた片側3車線で、九龍地区を南北に貫通しています。道路名称はこの道路の建設を指示した香港総督マシュー・ネイザン(Sir Matthew Nathan)に由来。ネイザン卿はアフリカやインドなど世界各地の植民地行政で活躍した人物らしく、九龍に幅広の道路を造るといったときにはその非常識ぶりを周囲が止めたのだが実は先見の明が・・・
という話がしばしば香港史の中で出てきます。ま、いまとなってはたしかに先見の明があったということでしょうけれども、植民地がらみのそうした話は評価が難しい。とくに宗主国側が恩着せがましいことをいってはいけない件でしょう。
(左)旺角付近の彌敦道 (右)表通り以外はやっぱり香港テーストになるね
8時半の彌敦道は、通勤客が出払ったあとなのか歩道を歩く人の姿があまりなく、といってショッピングにはまだ早すぎます。2階建てのバスばかりが北へ南へじゃんじゃん走っていますね。この地区は彌敦道を軸に道路が条里的に配置されているので方向の見当をつけやすく、出入りしても問題なさそうなので、1本、2本と裏側の道にも足を踏み入れてみました。欧米でも日本でも変わらぬ姿のショッピング・センターやブランドの路面店はまだ開店前。セブンイレブンばかりが明るさ全開で営業中です。香港のセブイレ密度ってわが新宿区よりもはるかに濃いかもしれません。彌敦道に並行する上海街(Shanghai
Street)というわりにゆったりした道路に入ると、話に聞いた茶餐廳(香港式の軽食堂兼喫茶店)がいくつか開いています。表に写真入りのメニューを掲げてあるのでだいたいの傾向がわかるね。基本的には汁そば、ワンタン、雑炊のたぐいを供するらしい。そのうちの一軒に入ってみると窮屈な店内に5つくらいの小さなテーブルが置かれてあり、しゃれた内装など何もない空間で、区議レベルの選挙事務所だといえば疑われない規模と雰囲気ではあります。ほとんどのテーブルに客があり、サラリーマン風、ご隠居さん風の人などがいて、みんな渋く朝ごはんを食べています。早餐(breakfast)が数種類あるようなのでそれを指さしてAを発注。注文を取りにきたおばちゃんがいろいろ聞いてくるのだけど、英語は1ミリも通じないし、当方も広東語を仕込んでいないので、日本語で「お願いします」とか何とかいって納得してもらう。たぶん飲み物の選択とかそういうことなのでしょう。何が出てくるかお楽しみでいいじゃん。
すぐに28 HK$の朝食セットが運ばれてきます。丼に入った汁そばには牛肉の煮つけらしきものがトッピングされています。それと、トーストされていない食パン、ハムエッグ、ミルクティー。写真メニューで見たときは餃子とか生春巻とかその手のものに見えたのはパンだったのか。私、いつもそうであるように細かい現地情報をあまり仕込まないままやってくるので、習慣などについては当初ひどく無頓着でいます。麺とパンを朝ごはんに同時摂取するというのはこのあたりでは普通で、しかも香港・マカオから東南アジアにかけては食事にドリンクをつけるのが非常に一般的だとあとから知りました。日本では、無料のお水が出てくるせいでもあるけど、アルコール以外はあえて添えたりしないですもんね。それにしても中華麺・パン・ハムエッグ・紅茶というのは旧宗主国の文化が普通に入り込んでいるようで興味深い。
香港の朝ごはん
トッピングの牛肉は甘辛く煮られていてなかなか。それにしてはスープの味が薄く、ちょっとアンバランスなのと、ネギを含むいっさいの野菜関係が載っていないのも妙です。やや、これはインスタントラーメンじゃないですか! われわれが「袋めん」と呼んでいるタイプのやつです。まあねえ、イタリア料理店でも生パスタでなく乾麺をゆでるところが多いだろうし、それと何が違うのだといわれれば難しいですが、飲食店でこれを出しちゃうのか〜。韓国の鍋物にはインスタントラーメンを入れるのが流行っているのだと承知しており、まあそういうものなのでしょう(これは当方の浅学による判断でした。後刻香港の麺事情を知ることになります)。食パンは1枚を半分のサイズに切って、なぜか甘いマーガリンをはさんであります。子どものころ、それもごく幼いころに、食パンにマーガリンを塗って少量のお砂糖をぱらぱら振りかけて甘くしたことがあったけど、まさにその味。ハムエッグは1つ目玉で半熟、いまどき見かけない真っ黄色な黄身だね。どういうバランスで食べ進めるのかわからないまま食事を終え、ミルクティーを飲んで〆としよう。ミルクが練乳っぽいのも、何だか昭和のころに戻った感じです。店のおばちゃんが「どうだった?」みたいなことを訊ねるので、「美味しい」と日本語で答えてにっこり。
香港を真に攻略するにはこの茶餐廳を普通に利用できるようになる必要がありそうです。もう1つはミニバス。MTRが運営するいわゆる路線バスとは別に、こまごました道路や住宅街に路線が設定されていて、地元の人の足になっています。なるほど、表通りも走るけれど裏通りの角地あたりに停留所があって普通に路上駐車していますね。今回は短い滞在なのでミニバスまで試す機会はないかもしれません。想像ですが、植民地時代のちょっと怪しい運送業者なんかがやがてこういう商売に転じたのではないかしら。
けだるさが残る朝の花園街付近 1日の生活の準備がぼちぼちはじまっています
条里的な町ですので地図は要らない。花園街(Fa Yuen Street)なるタテ筋に入り込んでみたら、この界隈は衣料品とか靴などの店が多く、さらに路上マーケットが立つらしくてその準備中でした。9時半になって何だか急に人が出てきた感じです。薄汚れた建物が密集し、看板が建物から垂直に張り出して道路上を覆う光景は写真で見てきた香港そのものですが、メイン・ストリートである彌敦道はすっきりとしていて欧米やの都市とさほど違わないので、そのギャップが非常におもしろい。近場にありながらこれまで行く気があまり起こらなかったのに、この年末になって行ってみようと思ったのは、一つには「いまのうち」に香港を見ておこうという動機によります。返還(主権移譲)から来年で20年。一国両制という変則的な原則を最低50年はつづけるという約束で、そろそろ半ばにさしかかります。1984年12月に締結された中英連合声明においてこの50年間の両制(香港に関しては社会主義経済を採らず、1つの主権国家の中に2つの異なるタイプの国家が並存するしくみ)が明記されたとき、中学生だった私が考えたのは、「そうはいっても50年経てば社会主義になるわけだし、そんなにうまくいくだろうか?」ということでした。おそらく世界の人々が同じような疑問を抱いたことでしょう。そのころは新冷戦と呼ばれる、東西対立が最後のスパークを見せた時期だったからなおさらでした。あとから振り返れば、香港が変わらざるをえないのはそのとおりだが中国本体のほうがもっと変わっていくだろう、さらにいえば経済状況で差をつけられていた中国本体が成長・発展して香港との塩分濃度が変わらなくなればよいのだという楽観的な見通しがあったに違いありません。新自由主義政策の元祖で国家の負担を極力軽減しようとしたマーガレット・サッチャー英首相(在任1979〜90年)のリーダーシップないし思い切りのよさが作用していたはずです。
もともと一国両制というのは、中華人民共和国が将来的に中華民国*を接収する際のプランとして提案したものでした。19世紀を通して切り取られた列強の植民地や租界などは1930年代までにほとんど回復されたのですが、その後の国共内戦と中華民国の台湾移転、背景としての東西冷戦があって、中華民国のほかに香港、マカオがいわば未回収の領土として残ったわけです。ややこしいことに、中国本体の統治主体が、清朝(〜1912年)→中華民国(1912〜49年)→中華人民共和国(1949年〜)と代わり、中華人民共和国はいわゆる文化大革命の失敗などもあって経済的にも社会的にも遅れた国となり、しかも共産党が実質的に一党支配する社会主義国家であるため、中華民国・香港・マカオの側からすれば「あそこに接収されるのは<復帰>ではないよなあ」という気分を抱かざるをえませんでした。1990年代以降の中国の経済発展は誰もが知るところで、いまや世界経済のメイン・エンジンとなっているわけですが、それゆえに香港の側の思いは複雑かつ深刻です。2014年の雨傘運動(Umbrella
Movement 香港政府の中国への傾斜に反対する大規模な運動。デモ参加者が傘を開いて連帯をアピールした)を報道で見たばかりですので、「いまのうち」にという思いが高まっていたところでした。
*台湾・澎湖諸島・金門島・馬祖島を実効支配する国家。国際連合は1971年、日本政府は1972年までこの国家を承認していたがその後に取り消した。しかし中華民国の存在と統治範囲は1949年から基本的に変わっていません。いわば世界最大の未承認国家となっています。
法輪功は邪教(カルト)、香港を撹乱し仇をなす恥ずべき漢奸(中華民族の裏切り者)
創立者は悪魔だ!というような告示 ということは親中派の主張ですな・・・
お餅屋さんではなくパン屋さんか
暮れの遠征先をいつもの欧州でなく香港にした理由があと3つ。(1)いちばん日の短い時期で、アルプス以北だと15時過ぎには暗くなってしまい活動時間が短くなりすぎること、(2)夏休みや春休みに比べて滞在日数が短くなるため、往復に乗り継ぎを要する地域に向かうとロスが大きくなること、(3)この3年ばかり横浜中華街に毎週のように通っていてチャイナタウンの居心地に同化しかけており、この際リアル中華街も試してみようかなと思ったこと。中華街熱をこじらせちゃったわけね。
多少ジグザグしながら歩いていると、大きな交差点に面して地下鉄の駅入口が見えました。おや、太子站とあります。旺角から南に進んでいるつもりが、逆に北へ歩いてきてしまったらしい。条里的だから地図は要らんとかいってロクに確認しなかったものだから、最初の方角設定を完全に誤ったわけね。ま、そもそもがこれといった目的があるわけでもない町歩きなので、屋台の組み立て現場などおもしろいところを見られたのだからよいことにします。同じところを歩いて戻るのはアレなので、地下鉄で2駅、旺角を通り越した油麻地(Yau Ma Tei)まで進もう。彌敦道沿いは旺角よりも商業地の雰囲気で、そろそろ飲食店以外の店舗も営業開始していることもあり、町なからしさを感じられます。
油麻地には楽しいお店がたくさん 下2つは日本の食品や薬品などを売る専門店(香港のあちこちにこの種の商店がある)
おそらく気温は25度くらいになっているはずで、ジャケット着用だとうっすら暑いほどです。さすが亜熱帯。実は私、お恥ずかしいことに47都道府県のうち沖縄県だけ未訪なのです。興味がないわけではなく、ついでもないのでなかなか動き出せないというだけのことなのですが、社会科の先生としては南西諸島未訪というのはダメだよね。今回はその南西諸島を上空でスルーして、一気に広東省の南側まで来てしまいました。香港が「中国にあるのに中国ではない」ということを知ったのは、小学生になるかならないかのころだったと思います。当時の人気アイドル、アグネス・チャンさんの出身地は香港だよと親に教えてもらい、中国じゃないの?と不思議に思ったものでした。愛用?していた世界地図ジグソー・パズルでは、なるほど中国と別の色に塗られていました(当時は中華民国もまだ別の色でした)。
油麻地付近は味わいがありそうな都心だけど、もう少しにぎやかな時間帯に来るほうがおもしろそうなので、いまはそのまま通り抜けることに。彌敦道は油麻地の南側で東西の道路をアンダークロスし、そのあたりで若干テーストが変わります。地図を見ると条里的な町の構造はそのままですが、その南側のブロックはまるごと右に15度ほど傾いた条里になっているようです。横浜中華街は全体が45度傾いた条里なので初心者には方向感覚がわかりにくいのですが、それほどではない。その手前あたりに緑地がありました。静かな公園で、おっちゃんたちがベンチに座ってタバコをふかしながら憩っています。あと犬の散歩の人とかね。欧州には見かけないタイプの、どちらかといえば日本の町なかの公園に近い造りですね。見るとお寺のような建物があり、天后古廟と扁額に書かれていました。天后は媽祖の別名で道教における海の女神。中国南部や台湾の海洋関係の業者や住民に信仰されていて、横浜中華街にも媽祖廟が建てられています。こうして町なかを歩いていると忘れそうになるけど、香港は「港」の文字もあるくらいで、海の都市なんですよね! 当方もベンチに腰掛けて一休み。地図を取り出して、この先のプランをざっくりと確認しておきます。狭義の九龍はここから南の地区らしい。
天后廟
天后廟の横を、彌敦道と並行して南北に走るのは上海街。先ほど朝食をいただいた食堂と同じ通りのつづきでした。例の斜めに傾いた部分を過ぎると、各種商店が多い地区に入ります。今度は間違いなく南に向かって進んでおり、正面つまり南のほうに香港名物の高層ビルが見えてきました。九龍半島の先端部が近づいているようです。地下鉄荃湾綫の駅は、北から太子、旺角、油麻地、佐敦、尖沙咀とほぼ等間隔で設けられており、尖沙咀が九龍地区(大陸側)の最後の駅。その先でヴィクトリア・ハーバーを越えます。香港は一種の都市国家で、ずいぶん狭い範囲にいろいろなものが密集しているのだなとあらためてわかります。いわゆる路面店もその上部はほとんどが集合住宅で、洗濯物を干していたりするところも多く、いったいどれくらいの人が住んでいるのだろうと思うほど、町がタテに伸びていて空間を有効活用しています(香港島に行けばその傾向はさらに強くなります)。住んでみてもいいかななどと妙なことをふと考えてみました。ただ、きょうまともに話をしたのはホテル以外では朝の茶餐廳だけで、ことばは通じていなかった。旧英領ながら町行く人がみな英語を話すとは思えず、聞こえてくるのは広東語ばかりです。この言語をマスターするにはどれくらい時間がかかるのかな? もとより、掲げられている文字は漢字と英語なので、目で見るかぎりはいつもの欧州遠征より瞬時に意味をとれるというおもしろさがあります。
上海街 乾物屋さんは香港でいちばん多い店種じゃないかな?
PART2につづく
*この旅行当時の為替相場はだいたい1香港ドル=15.2円くらい、1元(中国人民元)=17円くらい、1マカオパタカ=14.7円くらいでした。
*香港・マカオの繁体字と中国の簡体字には日本の一般的な文字コードから外れる文字が多数あり、デバイスやブラウザによっては適切に表示されない場合があります。あしからずご了承ください。
*本文中で台湾を実効統治する主体を「中華民国」と表記し、香港・マカオについても「主権国家ではないがそれぞれ国家」という前提で記述しています。これは実態に即した判断によるものであり、日本国、中華人民共和国ならびにその他いかなる政府の公式見解に対しても支持または不支持を表明するものではありません。
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