Quatres villes à la Bretagne: Quimper, Brest, Vannes et Nantes

PART8

 

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ブリアン橋の1つ下流側に架かるのがジェネラル・オディベール橋(Pont Général Audibert)。オディベールは陸軍軍人で、ナチス占領下における軍事的レジスタンス(「秘密軍」 L’Armée secrète)を指揮した司令官のひとり。20世紀の歴史を順ぐりに歩いているような心持がするね。オディベール橋にはトラム23系統も走っていて、中央分離帯部分に専用軌道を設けています。そろそろ電車に乗りたいので、対岸のナント島に渡ってそこから乗ろうかな。電停の名はヴァンサン・ガッシュ(Vincent Gâche)。ぱっと見たときはヴィンセント・ゴッホ(Gogh)かと思ったら別人で、ナントの蒸気船の技師らしいです。

 ヴァンサン・ガッシュ電停

 コメルス電停付近の平面交差 あんがい日本国内にも少ないのです


すぐに3系統のトラムがやってきました。歩いて渡ったオディベール橋をたちまち渡り越し、3つ目のコメルス電停まで乗りました。そう、最初に降りたところね。今日もたくさんの人が行き来しています。都市計画がすばらしく、縦横いずれの幹線道路もトラムの併用軌道を含めて非常にゆったり造られており、街路樹もあってのびやか。LRT仕様のトラムがそういう景観にまたよくなじんでいます。いま乗ってきた3系統と直交する東西の道、つまり何度も乗った1系統の走る道は、どうやらかつてはロワール川のもう一筋の流路だったらしい。現在は流路が2つに分かれてその間がナント島になっているわけですが、かつては3つの流路に2つの中洲だったということ。ロワール川を遡行してきた外洋船が停泊して荷降ろしするのにはもってこいの地形でした(そのへんの経緯は、このあと訪れたブルターニュ公城の展示で学びました)。

旧流路が埋め立てられたため(現在はグリーンベルト。このへんのゆとりもうらやましい)コメルス側と地続きになっているのがフェイドー島Ile Feydeau)。奴隷貿易の拠点だったところで、財を成した人たちの住居が立ち並んでいます。ざっと見たところ100m×50mほどのごく狭い一角ながら、たしかにそこだけ時代に取り残されたような空気なのです。おそらくは現役のアパルトマンなのでしょうけれども、人の気配というのがあまりない(「完全にない」わけではない)。裏道はパリのサン・ルイ島を二回りくらい古めかしくしたようなディープさで、現代的な町づくりを褒めたところのすぐ隣とは信じられません。ここだけ時間が止まっちゃっているねえ。

 
 
平衡感覚が狂ってくる?フェイドー島の様子


もちろんフェイドー島もナントの繁栄の跡なので、こうして保全されているわけです。どうにもすごいのは、川の埋め立てなので地下水のバランスが崩れたせいなのか地盤沈下が起こり、建物が歪んでいること。読み方は「ゆがんで」でも「ひずんで」でもいいよ。欧州の都市では、建物が隣との隙間を空けずにびっちりと建てられ、そのおかげで町並がびしっと整っているわけですが、これほど微妙に歪んでしまうと、びっちりがあだになってしまいます。もとより日本の建築基準だと一発アウトで何だったら地区まるごと建て替えになってしまうわけですが、特例的に歴史的景観の保全を優先しているのだと推察されます。いやすごいな〜

さあいよいよナント最大の見どころであるブルターニュ公城Château des ducs de Bretagne)を見学することにします。城壁など敷地の周囲をとりまく構造物は中世後期のもので、空堀を隔てて石造りの建物群があり、中央の広場に面して白亜の本丸(とはいわないか)が見えます。本丸部分は新しいところで18世紀の建物。暮れに見学したウェールズのカーディフ城もそうでしたが、多年にわたって城としての機能を維持しているあいだに時代や様式を超えてよくわからない設定になってしまいがちではあります。21世紀に入って全面的な修復工事が施され、2007年に再オープンした由。広場に入ったり城壁に登ったりするのは無料で、歴史博物館Musée d’histoire de Nantes)になっている部分は€8。チケットを購入して、荷物を預かってもらいます。

 
ブルターニュ大公城の外観


古い建物を改造したというのに内部の配列は実に見事でした。大本命のパリ・ルーヴル美術館をはじめとしてフランス人はこういう作業がものすごく得意ですね。1フロアずつ上がっていくたびに現代に近づくようになっていて、展示やその説明もすっきりしていてわかりやすい。展示物の質もいいような気がします。前半というか最初のブロック(シーケンス Séquenceと表現)は、ナントがブルターニュ公国の中心として栄えた17世紀までの話。どこでもよく見るような武具などもあるけれど、公国の形成とキリスト教の布教が一体化していた経緯がよくわかりました。前述したように、ブルターニュはフランスとイングランドの両王権を天秤にかけながら生き残りを模索した末に、16世紀になってフランス王国に接収されます。フランスと聞いて正六角形のいまの国土を連想してはだめで、王家(カペー朝→ヴァロワ朝)の直轄領はイル・ド・フランス(パリ周辺)の他にはさほど多くなく、ロワール川から南の大西洋側は長くアンジュー家の所領でした。アンジュー家は婚姻によりイングランド王国をも継承しましたので(イングランドではプランタジュネット朝)、その支配地はフランス南西部、イングランド、ウェールズ、アイルランドに及びました。ややこしいことに「フランス」にあってはフランス王の封建的臣下ということになっています。子会社のほうが実質的に大きいというケースですね。百年戦争(13371453年)を戦い抜くあいだにフランス王に敵対する勢力、とくにイングランド系の支配地は本土から淘汰されて、王領が急速に拡大しました。同様にブルゴーニュなど現在の国土の東辺にある広大な所領は、中世後期にはハプスブルク家の支配に服していました。ブルゴーニュとフランドルは一体化した国家で、ルネサンスの担い手になったことでも知られます。そうした時代背景を重ね合わせてみると、「辺境」に位置するブルターニュが独立勢力でいられたことは不思議ではなく、フランス王国が近代的な領域国家へと脱皮するまさにそのタイミングで組み込まれたのだということがわかります。

16世紀のフランスといえば、その前半には国王フランソワ1世が、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とのライバル対決に執心し、中盤以降は宗教改革の影響で新教系の諸侯が王家と対決を図るようなこともみられました。それなりに持ちこたえていたヴァロワ朝もついに弱体化し、王位継承も危うくなってきます。そんな中で、いったんは追いつめられながらも大逆転で天下統一を果たしたのが、ナヴァル王だったアンリ・ド・ブルボン。この人は新教徒でしたがカトリックに改宗した上でフランス王に即位し、アンリ4世(在位15891610年)となりました。ほぼ豊臣秀吉・徳川家康の時代に相当しますし、天下取りまでのプロセスとか人物像などまさに大河ドラマ向き! そうです、ナントといえばナントいってもこれ、

 ナントの勅令Édit de Nantes

を忘れるわけにはいかないわけです。自身が泥沼の宗教戦争を勝ち抜いてきたアンリ4世の課題は、国家の統一、王権の拡張、そして新旧両派の融和ということにほかなりませんでした。で、どうしたかというと、ユグノー(カルヴァン派)などのプロテスタントにもカトリックと同等の権利を付与し、個人の信仰の自由を国家として承認したのです。同時代のドイツでは、諸侯単位で新旧いずれかを選ぶ形態でしたので、相当に進んだ考え方であったことは間違いありません。ユグノーには当時勃興しつつあった商工業者が多かったので、経済という面で国益にもかなうものでした。同時にこれ以降、フランス国内に限ってはカトリック組織がフランス王の権力内部に接収され、国家の側の優位が確定します。ナントの勅令がなぜナントで発令されたのかというと、宗教戦争のつづきでカトリック側に立ったブルターニュ知事フィリップ-エマニュエルが、混乱に乗じてアンリ4世と対立し、ブルターニュの自立を図ろうと挙兵したことに関係します。当然ながら彼はスペイン・アブスブルゴ(ハプスブルク)家の支援を受けて戦うわけですが、アンリ4世は敵の同盟を各個撃破してフィリップ-エマニュエルを追い込み、15983月これを屈服させました。「ブルターニュはフランスの領土である。わしはフランス王である。カトリックかプロテスタントかは個々人で決めてよろしい。フランスはフランスであってスペインではない」という意図を、「フランス」に組み込まれてまだ日が浅くアイデンティティも揺らいでいたここナントで発信することに意義があったのであり、同年430日の勅令と相成ったわけです。

 
(左)ブルターニュのナショナル・ヒロイン アンヌ・ド・ブルターニュ (右)19世紀のナント 小さな中洲はフェイドー島

展示の2つ目のブロックが大西洋貿易の拠点としてのナントの繁栄。3つ目は黒人奴隷を「売買」して隆盛を極めた18世紀のナント。4つ目は大革命とナント。ブルターニュは反革命の地盤になっていました。5つ目は19世紀の工業化時代。6つ目は第二次大戦後の新しい都市形成。そして最後が「大西洋の拠点都市」(une métropole atlantique)としての未来像。第二次大戦中のドイツ占領やレジスタンスで荒廃したナントは、造船業を中核として復活するのですが、それも1970年代までに衰退してしまいます。1980年代、ナントは新しい都市イメージの創成と産業の多角化を大胆に図ることを決意しました。トラムの復活やレ・マシーン・ド・リルの開発などもその一環です。そしてこのお城のリニューアルもそうした事業の中心に位置づけられました。日本と同様に欧州でも旧来型の重厚長大産業に依拠しすぎた地方都市は衰微し、なかなか立ち直れないでいるわけですが、歴史上の負の側面(奴隷貿易)をあえて自覚することで「新たな大西洋都市」というアイデンティティをめざすナントの取り組みがどこまで奏功するのか、注目したいと思います。

展示の中にはナントはブルターニュなのか?という自問も含まれていました。前述したように、長くブルターニュの中心都市であり、いまいる場所がその中核たるブルターニュ公城であったわけですが、最終的にはヴィシー政府の時期にブルターニュから切り離されました。ブルターニュへの復帰をめざす運動もあるとかですけれど、いやブルターニュではないと考える人も少なくなく、地域アイデンティティの混乱は収まりそうにはありません。まあ、そうだよなあ。


城壁の上から見たナント市街 「フランスで最も緑の豊かな都市」とされる


充実した博物館をゆっくり見てまわると、もう正午。ぼちぼち昼ごはんを食べて駅に向かうかな。セコい話をするなら、24時間有効の一日乗車券が1345分までなので、それまでにトラムに乗ればいいわけですが、実は歩いたってホテルまで15分くらいしかかからない距離なのです。この区間をずいぶん行ったり来たりしましたな。

お城の西側、昨夜よさげなレストランを探してうろうろした地区に入り込みます。もう魚料理は食べたので軽食でいいや。さまざまな欧州各都市で見るように、ここにも複数のケバブ屋さんが出店しています。それほど好きだということもないですが、値段とボリュームが手ごろなのでしばしば昼食に重宝します。その一軒でクラシックと称する最も標準的なもの(トマト、サラダ、オニオン入り)のムニュ(セット)を頼み、隣接するイートインコーナーでいただきました。€6.50。マヨネーズにチリパウダーを入れる?と聞かれたので、少しだけ入れてね、辛すぎると大変だからと。それでも汗っかきなもので顔のあちこちから水分が出てきました(汗)。


 


これでナントの見学はすべて終了。1駅だけトラムに乗ってホテルに立ち寄り、荷物を請け出してから駅に向かいました。もう少しだけ余裕があるので駅カフェでカフェを飲みながら時間つぶし。帰りの切符は途中のル・マン(Le Mans)でTGVを乗り継ぐことになっています。フランスの鉄道はパリ中心の放射状になっているはずだし、線形から見ても何から何に乗り継ぐのか判然としませんでした。コンコースの発車時刻表を見たら意味がわかった。私が指定された1405分発TGV5278便はパリ・モンパルナスではなくシャルル・ド・ゴール空港を経由してリール・フランドル(Lille Flandres)に行くやつなのね。その直前、1358分の8834便はパリ直行なのですがおそらくこれが売り切れていたため、ル・マン発(あるいは他のどこかから来るやつ?)の8836便に乗り継ぎということになったらしい。そういうのはパリから地方を眺めているだけでは気づかないですね。パリ市内を経由せず迂回して国際空港に向かうという設定もあるわけで、逆に空港行きに乗り継いで航空便につなぐという方法もあるわけです。さらにリール・フランドルというのはTGV-ヨーロッパ線の終点で、隣接するリール・ユロプ(Lille Europe)とともに、英国のロンドン、ベルギーのブリュッセル、オランダのアムステルダム、ドイツのケルンなどに向かう列車への接続を図っています。LCC(格安航空会社)がローカル路線をばんばん飛ぶ時代なので、新幹線もきめ細かく都市間輸送をフォローしなければやっていけない時代になりました。

 
 ナント駅 TGVに乗ってパリへ帰ろう2015


15
25分にル・マンに着くとホームの反対側に8836便が待っていました。こちらは1541分発で、パリ・モンパルナスに1639分着。フランス共和国から一歩も出ない旅程というのは久しぶりで、パリ以外のフランスに4泊というのも10年以上なかったと思います。何せ宇宙の中心(笑)である東京1区の住人なので、欧州に行っても花の都から思考や行動の軸を移そうとしていないわけね。列車がモンパルナスに近づくと、ナントを含めたブルターニュのどこにも見られなかったような大都会の景観が車窓に現れました。やっぱりパリは別格だなあ(いいなあ)。バスに乗ってカルチェ・ラタンの常宿に戻り、ブルターニュに行っていたんですと若旦那に告げると、「ああそれはよかったですね。雨じゃなかったですか?」だって。ブルターニュ=雨というのがフランス人の共通認識なのかとあらためて思います。降りっぱなしではなく降ったりやんだりの繰り返しが常態なんですね。きょう27日だけは最初から最後まで晴天で結構でしたが、あるいは私が去った後に一雨降っていたのかもしれません。

ブルターニュ 晴れのち雨 おわり

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