Quatres
villes à la Bretagne: Quimper, Brest, Vannes et Nantes
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PART8 |
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ブリアン橋の1つ下流側に架かるのがジェネラル・オディベール橋(Pont Général Audibert)。オディベールは陸軍軍人で、ナチス占領下における軍事的レジスタンス(「秘密軍」 L’Armée secrète)を指揮した司令官のひとり。20世紀の歴史を順ぐりに歩いているような心持がするね。オディベール橋にはトラム2・3系統も走っていて、中央分離帯部分に専用軌道を設けています。そろそろ電車に乗りたいので、対岸のナント島に渡ってそこから乗ろうかな。電停の名はヴァンサン・ガッシュ(Vincent Gâche)。ぱっと見たときはヴィンセント・ゴッホ(Gogh)かと思ったら別人で、ナントの蒸気船の技師らしいです。 ヴァンサン・ガッシュ電停 コメルス電停付近の平面交差 あんがい日本国内にも少ないのです
旧流路が埋め立てられたため(現在はグリーンベルト。このへんのゆとりもうらやましい)コメルス側と地続きになっているのがフェイドー島(Ile Feydeau)。奴隷貿易の拠点だったところで、財を成した人たちの住居が立ち並んでいます。ざっと見たところ100m×50mほどのごく狭い一角ながら、たしかにそこだけ時代に取り残されたような空気なのです。おそらくは現役のアパルトマンなのでしょうけれども、人の気配というのがあまりない(「完全にない」わけではない)。裏道はパリのサン・ルイ島を二回りくらい古めかしくしたようなディープさで、現代的な町づくりを褒めたところのすぐ隣とは信じられません。ここだけ時間が止まっちゃっているねえ。
さあいよいよナント最大の見どころであるブルターニュ公城(Château des ducs de Bretagne)を見学することにします。城壁など敷地の周囲をとりまく構造物は中世後期のもので、空堀を隔てて石造りの建物群があり、中央の広場に面して白亜の本丸(とはいわないか)が見えます。本丸部分は新しいところで18世紀の建物。暮れに見学したウェールズのカーディフ城もそうでしたが、多年にわたって城としての機能を維持しているあいだに時代や様式を超えてよくわからない設定になってしまいがちではあります。21世紀に入って全面的な修復工事が施され、2007年に再オープンした由。広場に入ったり城壁に登ったりするのは無料で、歴史博物館(Musée d’histoire de Nantes)になっている部分は€8。チケットを購入して、荷物を預かってもらいます。
16世紀のフランスといえば、その前半には国王フランソワ1世が、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)とのライバル対決に執心し、中盤以降は宗教改革の影響で新教系の諸侯が王家と対決を図るようなこともみられました。それなりに持ちこたえていたヴァロワ朝もついに弱体化し、王位継承も危うくなってきます。そんな中で、いったんは追いつめられながらも大逆転で天下統一を果たしたのが、ナヴァル王だったアンリ・ド・ブルボン。この人は新教徒でしたがカトリックに改宗した上でフランス王に即位し、アンリ4世(在位1589〜1610年)となりました。ほぼ豊臣秀吉・徳川家康の時代に相当しますし、天下取りまでのプロセスとか人物像などまさに大河ドラマ向き! そうです、ナントといえばナントいってもこれ、 ナントの勅令(Édit de Nantes) を忘れるわけにはいかないわけです。自身が泥沼の宗教戦争を勝ち抜いてきたアンリ4世の課題は、国家の統一、王権の拡張、そして新旧両派の融和ということにほかなりませんでした。で、どうしたかというと、ユグノー(カルヴァン派)などのプロテスタントにもカトリックと同等の権利を付与し、個人の信仰の自由を国家として承認したのです。同時代のドイツでは、諸侯単位で新旧いずれかを選ぶ形態でしたので、相当に進んだ考え方であったことは間違いありません。ユグノーには当時勃興しつつあった商工業者が多かったので、経済という面で国益にもかなうものでした。同時にこれ以降、フランス国内に限ってはカトリック組織がフランス王の権力内部に接収され、国家の側の優位が確定します。ナントの勅令がなぜナントで発令されたのかというと、宗教戦争のつづきでカトリック側に立ったブルターニュ知事フィリップ-エマニュエルが、混乱に乗じてアンリ4世と対立し、ブルターニュの自立を図ろうと挙兵したことに関係します。当然ながら彼はスペイン・アブスブルゴ(ハプスブルク)家の支援を受けて戦うわけですが、アンリ4世は敵の同盟を各個撃破してフィリップ-エマニュエルを追い込み、1598年3月これを屈服させました。「ブルターニュはフランスの領土である。わしはフランス王である。カトリックかプロテスタントかは個々人で決めてよろしい。フランスはフランスであってスペインではない」という意図を、「フランス」に組み込まれてまだ日が浅くアイデンティティも揺らいでいたここナントで発信することに意義があったのであり、同年4月30日の勅令と相成ったわけです。 展示の2つ目のブロックが大西洋貿易の拠点としてのナントの繁栄。3つ目は黒人奴隷を「売買」して隆盛を極めた18世紀のナント。4つ目は大革命とナント。ブルターニュは反革命の地盤になっていました。5つ目は19世紀の工業化時代。6つ目は第二次大戦後の新しい都市形成。そして最後が「大西洋の拠点都市」(une métropole atlantique)としての未来像。第二次大戦中のドイツ占領やレジスタンスで荒廃したナントは、造船業を中核として復活するのですが、それも1970年代までに衰退してしまいます。1980年代、ナントは新しい都市イメージの創成と産業の多角化を大胆に図ることを決意しました。トラムの復活やレ・マシーン・ド・リルの開発などもその一環です。そしてこのお城のリニューアルもそうした事業の中心に位置づけられました。日本と同様に欧州でも旧来型の重厚長大産業に依拠しすぎた地方都市は衰微し、なかなか立ち直れないでいるわけですが、歴史上の負の側面(奴隷貿易)をあえて自覚することで「新たな大西洋都市」というアイデンティティをめざすナントの取り組みがどこまで奏功するのか、注目したいと思います。 展示の中にはナントはブルターニュなのか?という自問も含まれていました。前述したように、長くブルターニュの中心都市であり、いまいる場所がその中核たるブルターニュ公城であったわけですが、最終的にはヴィシー政府の時期にブルターニュから切り離されました。ブルターニュへの復帰をめざす運動もあるとかですけれど、いやブルターニュではないと考える人も少なくなく、地域アイデンティティの混乱は収まりそうにはありません。まあ、そうだよなあ。
お城の西側、昨夜よさげなレストランを探してうろうろした地区に入り込みます。もう魚料理は食べたので軽食でいいや。さまざまな欧州各都市で見るように、ここにも複数のケバブ屋さんが出店しています。それほど好きだということもないですが、値段とボリュームが手ごろなのでしばしば昼食に重宝します。その一軒でクラシックと称する最も標準的なもの(トマト、サラダ、オニオン入り)のムニュ(セット)を頼み、隣接するイートインコーナーでいただきました。€6.50。マヨネーズにチリパウダーを入れる?と聞かれたので、少しだけ入れてね、辛すぎると大変だからと。それでも汗っかきなもので顔のあちこちから水分が出てきました(汗)。
ブルターニュ 晴れのち雨 おわり |
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