Quatres villes à la Bretagne: Quimper, Brest, Vannes et Nantes

PART1

 



世界各地域の経度の基点になるのはロンドン東郊グリニッジで、経度00分の子午線(北極と南極とを結ぶ線)が通っています。昨年の暮れにも訪れた英国の首都は、したがって少しだけ西半球にはみ出した西経07分に位置します。フランスの首都パリはどうなのかというと、東経221分。つまりこちらは少しだけ東半球にはみ出しているわけね。地図に疎い人は意外に思われるのかどうか、パリはロンドンから見てほぼ真南にあります。日本の標準子午線(兵庫県明石市)が東経135度ですので、やっぱりわが列島は欧州から見ればはるか東にあるということです(申すまでもないながら東経・西経とも180度まであります)。ちなみに、中学校の地理で学ぶことなのだけど、経度15度で1時間の時差というのが標準ですので(360度を24時間で割れば15度が算出されます)、日本が135度ということはロンドン(英国)との時差は135÷159(時間)ということです。パリ(フランス)もほぼほぼ0度なので同じ計算が成り立つはずですが、なぜか英国より1時間早い時間を使っていますので、日本との時差は8時間。東はポーランドから西はスペインまで、この英国プラス1時間を使用します。サマータイムのときには欧州各国が1時間早まりますので、日本との時差は英国で8時間、フランスほかで7時間。

そのパリやロンドンは、欧州全体の中でかなり西に寄っています。ですので「欧州のどこか別の地域」に旅行しようとすれば、たいていの場合は東を向いて出発することになり、この西欧あちらこちらで訪れた場所の大半は東京と同じ東経何度の世界でした。地図で見ると、パリは東西でいえばフランスの真ん中あたりにあるので、この国の半分は西半球にあるということがわかります。そういえば西経何度のフランスって、ほとんど行ったことがありません。「フランスは政治も教育も観光も中央集権だから、パリで事足りる」などと日ごろ口にしていますけれど、パリが好きなのはそれとして、あまり適切な説明ではないですね。アンチナショナリストのくせに「せっかくならフランスじゃないに行こう」と国単位で思案しているせいでもあります。たまたま今回は、航空券を予約する際に3点チケット(3 ways:たとえば東京→ロンドン→パリ→東京)とかオープンジョー(Open Jaw:たとえば東京→ロンドン/パリ→東京で、ロンドン・パリ間は自腹で移動)の経由地を思いつかず、シンプルなパリ往復にしています。同僚の先生がいうには「あちこち行きすぎて、もうめぼしいところがないんじゃないですか」とのことですが、それはないにしても、ぜひぜひと身を乗り出すような都市を思いつかなかったのも事実。こういう機会こそ、フランスの西半分、西経何度の地域を訪れよう。

 
パリ・モンパルナス駅 早く来すぎた! (いちばん右の欄が発車番線案内で、1006分発のはまだ出ていない à l’heureは「定刻どおり」)


2015
223日、今回の出発点となるパリ・モンパルナス駅Gare Montparnasse)にやってきました。カルチェ・ラタンの常宿ちかくからバスで15分ほどです。1006分発なのに、用心しすぎて9時ころ着いてしまいました。モンパルナス駅には3つの建物があり、これまで何度も訪れたことがある大きなコンコースはモンパルナス1、今回はバスの関係で初めてモンパルナス2、別名パストゥール駅(Gare Pasteur)に来てみました。しかしここは駐車場に直結したうら寂しいところで、人も少なく、お店も売店とカフェが1軒ずつあるだけ。失敗したかな。ひとまずカフェでパン・オ・ショコラとカフェ・クレム(カフェオレ)の朝食をとり、キヨスクでお水と非常食のスナックを購入。周知のように今年に入ってからパリを、じゃなくてフランスを、じゃなくて世界を震撼させた出来事がパリの東部で発生したのですが、その「現場」となった例のタブロイド紙が主要紙と並んで売られていました。さて、欧州の大都市の例に洩れず、パリの鉄道ターミナルは方面別に分かれています。ノルマンディ方面への列車が発着するサン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)、フランドル・英国・ベネルクス方面への列車が着く北駅(Gare du Nord)、アルザス・中部ドイツ方面に向かう東駅(Gare de l’Est)、リヨン・マルセイユ・スイス・イタリア方面へのリヨン駅(Gare de Lyon)、中部フランス方面へのオステルリッツ駅(Gare d’Austerlitz)、そしていまいるモンパルナス駅はフランス北西部・西部を担当します。フランスの新幹線TGVTrain à Grande Vitesse)は、最初にパリ・リヨン駅からリヨン方面への路線が開通し、次にこのモンパルナスからトゥールおよびル・マンへの大西洋線が開通しました。トゥールとル・マンは別のライン上にあり、大西洋線は途中で2つに分かれるY字線形をしています。今回はル・マンを経由します。そうそう、どこに行くかをいっていませんでしたね。これからブルターニュBretagne)に4泊の予定で出かけます。ひとまず地図をごらんください。

 地図出典 旅行のとも ZenTech


正六角形をイメージできるフランスの国土のうち、大西洋に突き出した角がブルターニュ半島。いうまでもなくフランス本土の最西端にあたります。語尾の「ニュ」(gneと綴る)というのが何ともフランス語っぽいですが、実は対岸のブリテン(Britain)もフランス語ではBretagneで同じ。フランス語でGrande-Bretagneと「大」がつけばフランスのブルターニュと確実に区別できるということになります。もう1つ、ブルターニュにはケルト語系統の言語であるブルトン語というのがあり、そちらではブレイス(Breizh)といいます。2ヵ月前に訪れたウェールズで話される(といっても駅アナウンス以外で1度も聞かなかった!)ウェールズ語とは非常に近い親戚関係にあります。中央集権を絵に描いたようなフランスで、地方の文化とか言語がどうなっているのか、にわかに興味が出てきました。

ところで、出発前ではあるのですが、しくじったというか注意散漫で見落としていたところに前夜気づいてしまいました。いまから乗車するTGV8715便カンペール行きは、8日前の215日にフランス国鉄SNCFのサイト経由で購入したものです。いまはEチケットと称して、自分でA4判の紙に印刷したものを持参するか、スマートフォンにダウンロードして提示するのが主流。私は印刷した紙を持参しています。それをあらためて見てみると、sans place attribuéeとあるではないか。「割り当てられた座席はない」という意味で、要するに座席指定をとれていないということです。いままで何度も鉄道の切符をネットで手配してきましたが、発券されるということはイコール指定がとれたという意味だと信じ込んでいて(毎回そうだったから)、座席なしなんていう事態を想定していませんでした。確認キーを押す前に「いいですか?」みたいなことを訊ねられているはずなのに、慣れすぎていて見落としました。うう、カンペールまで4時間半の旅程を座席なしで過ごすのは苛酷だぞ! 



欧州の鉄道は、列車が何番線から出るのかが事前に確定せず、発車する少し前に発表されます。モンパルナス駅のゼネラル・インフォメーションによれば、発車20分前に発表する由。で、ジャスト20分前の946分に、6番線だったかの発表(発車案内板に掲出)がありました。大きな荷物をもった人たちがそれを見て一斉に立ち上がり、下の階のホームに向かいます。TGVの高速区間は全車指定のはずなので、「座席なし」が発券されているということは実際に満席となっているに違いありません。日本の例だと、全車指定席の成田エクスプレスが、満席となった場合にかぎって「立席(りっせき)特急券」を売ります。時間の都合でその列車に乗らなくてはならないが、座れないことを承知で特急料金を支払いますという意味。今回のもきっとそうだな。そもそもブルターニュ行きを最終的に決め、ネット予約に取り組んだのが1週間前というのが遅すぎました。すでに早割などの設定はなく、正札の片道€73でやむなくフィックスしたのです。1ヵ月前くらいにとればその半額くらいで乗れたのになあ、しかも座席なしなんて! ヘビー・リピーターの私がそのようなもたつきを起こしてしまったのは、ひとえに12月の気分によります。17日のパリのテロ事件で、別にびびりはしないけれど、こんなときにフランスに行くというのも気が重いなあという感覚になり、旅程を考えるという本来ならわくわくするタイミングがついに来ないまま、タイムリミットにさしかかってしまったという次第。

 


座席なしのチケットながら、なぜか「16号車」という指定はあります。立席特急券の発行にも数の限度を設けて、立ち客がばらけるようにしているのでしょう。これまでTGVを利用したとき、デッキなどに座り込んでいるお客をずいぶん見かけ、変だなと思っていたのだけど、そういうことだったのかもしれませんね。16号車に行ってみると、乗客はわずかしかおらず、あれ?と思いかけましたが、ひとまずドア横にある補助椅子を確保したいのでデッキに滞留。すると発車間際になって小中学生くらいの集団が複数の先生に引率され、わいわいがやがや話しながら乗り込んできました。どこまで行くものやら団体客に違いなく、それもあって満席になったのかな? 先生は白人だけど児童・生徒の大半は有色人種で、しかし民族はばらばら、年齢幅もありそうな感じで、いったいどういう団体なんだろう? 「しゃべっていないで早く乗り込みなさい!」とかいわれつつも、生徒たちはいたってマイペース。旅慣れていないせいか、とっとと荷物を収納しなければ後続の人が乗れないということを心得ないものだから、発車1分前になってもなお最後尾がホーム上にいます(笑)。駅員にもせかされて、ようやく彼らが車内に入り込んだところでホイッスルが吹かれ、ドアが閉まって、滑り出すように発車しました。デッキには補助席が4つあり、その1つを確保。向かいにも兄さんが座っているので、足が引っかからないよう当方はドア側に伸ばすことにします。お客が乗り降りするたびに立たなければならない面倒はあるものの、立ちっぱなしではないのが救いですね。立っている人がこのデッキに2人。

いつもながら北部フランスの車窓は変化に乏しく、おもしろくないので、読書しながら過ごします。ベトナム近代史の本をフランス語の聞こえるフランス国内で読むというのもなかなか臨場感があっていいですよ。ベトナムから見たフランスと、フランスから見たベトナムでは、19世紀も現在でも、精神的な意味では等距離ではなく、アシンメトリーに違いありません。パリを出て次の停車駅は1212分のレンヌ(Rennes)。学園都市として知られ、モン・サン・ミッシェルに行く際にはここでバスに乗り換えます。どうやらここで編成を分割するらしい。私が乗っている前半分がカンペール行き、後ろ半分はサン・マロ(Saint Malo)行きになる模様です。小田急線の急行が相模大野で分割され、箱根湯本行きと片瀬江ノ島行きに分かれるみたいなことです。同じブルターニュ半島でも、サン・マロは北岸、私がめざすカンペールは南岸。ただ、事前に地図を見ていて、何となくサン・マロのほうを通って途中で半島を横切るのかなと思っていたので、レンヌでその間違いに気づきました。ネット予約だと経由地などがわかりませんので、そういう誤認をしてしまうのですね。数分停車して、「この車両はカンペール行きです。お乗り間違いのないようにご注意ください」というアナウンスが流れました。



このあたりはすでに在来線区間ですし、レンヌから先はローカル線の色合いが濃くなるためか、列車のスピードが目に見えて落ちました。そもそもパリからレンヌまで2時間、ブルターニュに入ってからが2時間半なので、いかに在来線はトロいかがわかります。それでも在来線と新幹線のレール幅が同一なので自在に直通運転を設定できるのは、やっぱりいいですよね。湿地帯みたいなところを通り抜け、13時ちょうどにルドン(Redon)着。ここはブルターニュ半島(南岸)の付け根付近にあり、レンヌの外港の役割を果たしてきました。お天気は雨。週間予報でもブルターニュには傘マークが並んでいて、本当なのだとしたら残念。

1325分、ヴァンヌ(Vannes)着。このあたりというかこの時間は晴れ。つづいて1335分にオレー(Auray)着。この16号車と隣の17号車に乗っていた子どもたちが、また大騒ぎしながら降りていきました。パリの子どもが地方に出かけるのか、その逆なのかわからずじまいです。今度はなぜか到着の15分も前から狭いデッキに押し寄せてがやがややっているため、当方の身体にも何度もぶつかってきます。ただ、そのつど謝ってくれるのでいい子たちなのでしょう(笑)。別れ際にBonne journée(よい一日を)と何人かの少年に向けていったら、Vous aussi(そちらさまも)と立派な返礼がありました。感心感心。

子どもたちがいなくなったため車内は閑散としました。ようやくデッキから解放され座席に腰かけたものの、あと1時間くらいですね。今回は、カンペール駅前のホテルを2泊押さえてあるだけで、その後の2泊の予定は立てていません。カンペールはさほど大きな都市ではないので23日を要するはずはないけれど、荷物をもってうろうろしたくないので、そこを拠点にブルターニュのどこかに日帰りで出かければいいかなと考えています。半島の先端に近いところを選んだのは、じわじわパリに向けて戻ってくる旅程を想定したため。ですから、いまローカル列車と化したTGVでたどっている町のどこかに、あさって以降宿泊することになります。列車はロリアン(Lorient)、カンペルレ(Quimperlé)、ロスポルダン(Rosporden)と主要駅に停車して、1441分の定刻をいくらか遅れて終点カンペールに着きました。ここまで乗りとおしたお客は各車両に56人程度のようです。遺憾ながら雨が降っている。

 
 カンペール駅


カンペールQuimper)は人口6万人くらいの地方都市。ブルターニュについて予備知識がほとんどなく、どんな町があるのかについても1週間前に鉄道とホテルを手配したとき初めて検討したくらいですので、カンペールについても地名以上の情報がない(汗)。TGVの終点だし、何となくここを足場にすればいいかなと考えただけです。サン・マロを経由して半島の北岸を進む路線だと、軍港で有名なブレスト(Brest)が終点で、そちらは地名を心得ていたのですが、何となく軍港都市よりも素朴な町(と勝手に思っている)のほうがいいのではないかな。

欧州での宿泊予約において、私は主にエクスペディアではなくブッキング・ドットコムを使っています。今回いくつかの候補を検討してみると、田舎だからか、相場が安くて助かります。市の中心と駅は少し離れているらしいけど、足場にするのなら駅前ホテルのほうがよいやね。ということで、その名も「駅(gare)のホテル」というホテル・ド・ラ・ガールHôtel de la Gare)を2€118で予約しました。フランス流は素泊まり価格です。小さな駅舎を出ようとしたまさにそのとき、雨が本降りになってしまったため、やむなく折り傘を取り出しました。いつも駅からホテルまでは最短距離で行けるように地図を頭に叩き込んでいるのですが、ここは文字どおりの駅前、ジャスト・フロント・オブ・ザ・ステーションで、津田沼駅と千葉工大(これもたいがい目の前だけどね!)よりもずっと近いので迷うはずもありません。駅前通りに面した小さな構えのホテルでした。

 
   
ホテル・ド・ラ・ガール


ドアを開けるとすぐレセプションがありました。同年代くらいのさわやかなムッシュが笑顔で迎えてくれ、「ムッシュ・コガ、ようこそ、さあこちらへ」といい感じ。傘をたたんでいると「雨が降ってきたみたいですがすぐにやみます。ま、でも、すぐまた降り出しますけどね」とにやり。「コーヒーを召し上がりますか?」と唐突な問いに、ウィと答えたら、隣接する朝食ルームでエスプレッソを抽出して、もってきてくれました。このサービスは初めてだな。「ムッシュ・コガ、英語で話しますか、フランス語で?」――まあどちらでも。両方でどうでしょうか(笑)。「OK、じゃあそうしましょう」。で、英語フランス語半々で手続きが進みます。ブッキング・ドットコムで予約を確定したあと、ホテルから直接メールがあり、到着時刻を教えてくれということだったので、1441分着のTGVで来ますとお知らせしておきました。ムッシュ・コガがこのタイミングで来ることを承知で準備していてくれたのですね。普通はこのあとカギをもらって終わりなのだけど、兄さんは「さあこちらへ」と誘導してくれました。朝食ルームの横を通り抜け、勝手口のようなアルミサッシのドアを開けると、そこには小さなパテオ(中庭)が。ヤシの木が植えてあったりして何となくリゾートっぽいのですが、ブルターニュ的ではないし、そもそも駅前の商人宿的な設定じゃないの?(笑) 私の部屋はパテオに面して母屋と向かい合った0階の一室でした。「離れ」のような感じがするね。アパートのような造りでもあり、もしかするともともとそうだったか、転用も想定して建てたのか。「夜10時を過ぎるとレセプションの入口は閉めてしまいますので、カギはお持ちになり、戻られるときには暗証番号を押してください。ただその場合の入口は裏にあります」と、今度はパテオを通り抜けて本物の勝手口に進み、そこで数字ボードを実際に操作して鉄扉を開ける動作をしてみせました。

1€59の部屋は、サッシのドアこそチープですが、十分な広さがあります。ダブル・スタンダードという安いほうから2番目で予約したけれど、もっと安い部屋ならベッドが狭いということですねたぶん。水まわりもまずまず。そしていまどきWi-fiはデフォルトです。20分くらい休憩してから、町歩きに出ました。兄さんのいったとおり雨はすっかり上がって晴天になっていました。兄さんは「歴史的中心の地図」(Plan du Centre Historique)というシティ・マップをくれ、市街地との位置関係を教えてくれます。フレンドリーで親切な人だな〜。目の前の駅前通りを西に直進し15分くらい歩けば中心部とのこと。

 
(左)市街地を貫流するオデ川  (右)案内表示はフランス語とブルトン語を併記


広い駅用地の端っこまで来ると、そこからケルゲレン提督通り(Boulevard Amiral de Kerguelen)がはじまり、オデ川(l’Odet)に沿って西に伸びています。イヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレンは18世紀の探検家で南極海のフランス領ケルゲレン諸島を「発見」した人物。さほど広くない川の両岸はけっこう交通量のある道路ですが、歩道部分が広めにとってあり、散歩道として整備されている模様です。いまは真冬なのでモノトーンに近いですけれど、春夏には各種のお花が彩るのではないかな。日本人なら、ていうか古賀ならソメイヨシノの並木をつくってしまいそうなシチュエーションです。この付近の飲食店は、インド、中国、日本などなぜかエスニック系。川に棲む魚についての説明板によれば、ナマズ、ウナギ、川マス、アトランティック・サーモンまでいる由です。海岸からの距離数キロというところですので、汽水域なのかもしれません。カンペールは歴史的に見れば「海の港」です。古くは波風を避けるため河口を少し遡ったところに港を設けるケースが多く、その一例といえます。ブルターニュ半島はそれなりに凹凸のある地形なので、幾筋かの河川が流れ下りてきており、この付近で合流するため、内陸交通と海上交通との結節点として古代から繁栄したそうです。カンペールという地名もブルトン語で「川の合流点」という意味らしい。昨年訪れたアイルランドのダブリン、ウェールズのカーディフでは、ケルト系の言語を「国語」としてかなり強引に?推していましたけれど、ここではブルトン語はお飾り程度であまり目立ちません。小・中学校でブルトン語の授業を選択することはできますが(ブルターニュにかぎらず法的には全土で)、英語など現代語(langues vivants)との選択ですので、普通はまあ英語をとりますわなあ。

 
 後陣側から見た聖コランタン大聖堂


ホテルの兄さんのいうとおり、ゆっくり歩いて15分ほどで県庁(préfecture)のある市中心部にやってきました。城壁みたいなところの切れ目があり、そこから先(ケルゲレン通りの北側)が旧市街だというのは直感的にわかります。聖コランタン大聖堂Cathédrale Saint Corntin)のゴシック建築が青空に向かってそびえるのが先ほどから見えています。カテドラル界隈が中心であるのはどの町でも同じですね。大聖堂の前に進むと、石畳が敷き詰められた方形の広場になっていて、各種店舗などが取り囲むというよくある構造。路線バスだけが乗り入れを認められる空間のようです。

聖コランタンというのは伝説上の初代ブルターニュ大司教。実在したとすれば9世紀ころの人のようです。この教会の建設がはじまったのは13世紀、完成をみたのは19世紀と、あちこちで聞くのと同じような推移がありました。ファサードの頭にある2本の尖塔は最後のほうにできたとのこと。前述のアイルランド、ウェールズ、ここブルターニュ、そしてスコットランドなどにいまもケルト系の言語が残っているのは、いずれもいま英国とかフランスと呼んでいる国の西の周縁に位置するためです。いわゆる民族大移動によって欧州の中央部から追われたケルト民族が、それら西縁部に痕跡をとどめているということね。そういう経緯もあって、中世のブルターニュは地続きのフランスよりもイングランドのほうにシンパシーがあったようで、両者が競った1215世紀ころには外交をたくましくして国の生き残りをかけたのでした。両国王室との婚姻関係を結んで歴史の海をたくみに泳いできたブルターニュ公国は、しかしその縁つづきゆえにフランス王室ヴァロワ朝の王子を公として迎えることを余儀なくされます。16世紀、イタリア戦争でハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世、ブルゴーニュ公シャルル2世)と覇を競ったフランソワ1世が婚姻によりブルターニュ公を継承。女系がつづいたブルターニュの公位を結果的に簒奪しました。その子であるアンリ2世(カトリーヌ・ド・メディシスの夫)のときフランス王国はブルターニュを併合(1547年)、以降はそれなりの自治を認められながらも「フランス」の一部として歴史を刻むことになります。昨2014年、スコットランドが300年ぶりの独立を問う住民投票を実施して話題になりましたが、約500年という歳月はどうなんでしょうね。たぶんだけど、「自分たちはフランスではなくブルターニュだ」という意識が強くなるのは、言語や文化というより、社会的・経済的・政治的に差がついて不利な状況に立たされるときではないかと思う。

 
 
聖コランタン大聖堂


大聖堂の中に入って、いつものように魂の救済を静かに祈ってから、側廊をぐるりと一周。ブルターニュとカトリックの歴史を世界史全体に位置づけた年表のパネルが何枚かに分けられて展示されています。カトリック本位ということでもなく、そのまま受験生が使えそうな純歴史的な内容なので、思わず見入ってしまいました。高校の「世界史」が苦手な人って、「フランスで何があったときにドイツはどうなっていて、イタリアは・・・」といったヨコ関係の把握が難しくて嫌だとよくいうのですが、私なんかはそれがたまらなく愉しい。グローバル時代にそういう思考って必要だと思うんだけどな。中途半端な時間ゆえか堂内にいるのは10人かその程度。見事なステンドグラスやパイプオルガンなどをゆっくり見てまわり、さあ次に進もうとエントランスに戻ってくると、外はけっこうな雨で石畳が濡れています。うわ雨だ、嫌やな〜と思って5分くらい屋根の下で待機していたら、またカラッと晴れます。ホテルの兄さんの話もあったことだし、もしかするとブルターニュは降ったり止んだりが当たり前の土地なのかもしれません。

  雨のち晴れ


ホテルでもらったマップを見ると、旧市街のエリアはかなり狭く、横断するのに10分かかるかどうかという程度です。このところの私の町歩きは、とくに目的や目標物がないのであれば、印象や興味をもとにテキトーに歩くだけなので、非効率かつ不合理ではありますが、こうした狭い町を回るのには向いていると思います。この広さだと迷うこともないし、迷ったところでいくらでも修正できますからね。大聖堂前の石畳の道(エリ・フレロン通り Rue Elie Fréron)は北に向いて緩やかな登り坂になっていました。両側には小さな商店や飲食店が並んでいます。観光地ではなく日常生活の場で、盛り場の感じもしません。学校を終えたばかりとおぼしき中高生たちがけっこう歩いています。途中でサレ通り(Rue du Sallé)に折れると、飲食店街のようで、クレープリーをはじめとするお店が並んでいました。夕食にはまだ時間があるけれど、いったんホテルに戻るのも面倒なので、それまでの時間は市街地をぐるぐる回るなどしよう。小さな町なので食事するところの目星はつけやすいですね。

飲食店ゾーンは100mかそこらで終わってしまい、単なる「旧市街の路地」みたいな道になりました。また小雨が降ってきますが、折り傘を出すのはよくても収納するのが面倒なので、本降りになるまではがまんしましょう。風はなく、さほど寒くはありません。先ほどホテルでフェイスブックを開いたら、元教え子のSさんの、結婚しました!という報告がタイムラインに現れました。おお、おめでとう。いいねいいね。6年前に卒業旅行のパリで合流したことがあるのですが、「ローマやパリのような大都市よりも、連れて行ってもらったオルレアンの町並が強く印象に残っています」と後々までいってくれました。そうなんですよねえ、どちらがよいということではないにしても、「欧州」を旅行したいという志向の人にとっては地方都市の旧市街の、何でもないような一隅を歩くほうがいいような気はします。ジェンダー偏見を承知でいえば、女性はとくにそうじゃないかな。私のようにしょっちゅう渡欧できる人はそう多くないので、たまに出かけたとき「大物」をねらう心境はよくわかるんですけどね。日帰りエクスカーションでもいいから、どこか小さな都市の訪問を組み込むといいですよ。

 
 カンペール旧市街の町並


PART2 につづく

*この旅行当時の為替相場はだいたい1ユーロ=138円くらいでした


この作品(文と写真)の著作権は 古賀 毅 に帰属します。