Bienvenue
à Paris ! 46- Tour
Eiffel (1) (エッフェル塔 その1) 明治時代、西欧化の道を突き進んだ日本から、官民さまざまな人が、何ごとかを学びにパリへやって来ました。現在でこそ、テレビや書籍あるいはうさんくさいインターネットの情報(ん?)などを通して、パリのイメージは多くの日本人に知られていますが、まともな辞書すらない時代のジャポネたちは、いったいどのような思いを抱いてこの街を訪れたのでしょうね。驚異か、羨望か、反発か、違和感か? 私がフランスを研究対象にするようになったのは偶然と打算の結果で、もとの関心はそれほど高くありませんでした。それでも、専攻する以上は行かねばね〜というので、早大の助手だったころ数週間の研究出張を敢行。事前に憧れがあったわけではないので、数年後には得々と街の情報を書きつけるようになるなど思いもよらず、「パリはさっぱりわからんが、とにかくここで何かをしないと」と、緊張感を伴った複雑な気持ちでいました。そんな中、パリへ来てたしか4日目あたりに、左岸のシャン・ド・マルス公園(Champ
de Mars)を散歩しながら、その敷地に建つエッフェル塔(la Tour Eiffel)を見上げて考えたのが、明治期の先人たちのことだったのです。学部時代には日本近現代史を専攻していたのですけど、明治の人たちをその一瞬でかなり見なおしました。近代化は西欧化でいびつだった、なんてステレオタイプの叙述で満足してしまっていたが、人々の想像を絶するすごいエネルギーの集積だったんだろうな。 何しろ、エッフェル塔が建造されたのは大日本帝国憲法が発布された1889年です。フランス革命100周年を記念する万博の巨大展示物として、鉄の骨組みがセーヌ左岸に立ち上がりました。設計者はギュスターヴ・エッフェル。革命の折に連盟祭などのセレモニーが挙行されたシャン・ド・マルスに、理性と科学の信仰を結実したような巨大鉄塔。現在でもパリには高層建築がほとんどありませんから、エッフェル塔はとびきり高く見えますが、当時の人たちが度肝を抜かれたことは想像に難くないし、まして明治20年代の日本からやって来た人たちがこれを見てどんな思いを抱いたか・・・。 エッフェル塔は、はじめ臨時・仮設の「出し物」だったため、20年で取り壊されることになっていました。景観を著しく損ねているという批判は相当に強く、臨時とても許せぬというパリジャンは多かったようです。モーパッサンが塔の足許にあったレストランに日参したのは「あの嫌味な塔を見ずにすむ唯一の場所だから」。反面で、この近代的な作品を賛美し愛好する人はそれ以上に多く、継続を願う声も高まりました。論争が長引いた結果、20世紀の通信技術が追いついて塔の利用価値が高まり、恒久化が決まりました。いくら古くてもノートルダムなど石造りの建物が残っていることにはあまり違和感がありません。1400年前の木造建築である法隆寺がすごいというのはいうまでもないけれど、120年前の鉄の骨組みがいまなお現役でいるという事実には、私などは余計に圧倒されます。そういっているうちに、東京タワーも半世紀近い星霜を刻んでいますけどね。 パリの見所といえば、と日本人に質問したら、おそらく第1位はエッフェル塔になることでしょう。この都市を訪れる観光客は、まず間違いなくここに行ってみようという気になるはずです。都市のランドマークとしてはニューヨークの自由の女神(これもフランス革命と浅からぬ関係がある)と双璧。当然ながら、絵画や映画などにも数え切れぬほど描き込まれてきました。いま展望台に上って、周囲の会話に耳を傾けてみると、フランス語以外の言葉を話している人が実に多いことに気づきます。欧州、いや世界中のおのぼりさんを惹きつけるスポットで、時代を超えてそうであるのがなおすごい! ・・・と、どういうわけか私はエッフェル塔を絶賛してばかりで、おや?と思われた方もいることでしょう。東京タワーが、東京の光と影、美しさと醜さ、誇り高さと尊大さを一身に体現し、東京という都市への思い入れが強い人ほどそのシンボルとして受け止める傾向があるように、パリの、いや欧州なるもののあれこれをあの鉄塔に重ね合わせているのです。20世紀末のシャン・ド・マルスを歩きながら、フランス・欧州の教育文化を自分に引き寄せることでこれからの立ち位置を定めようと心に誓ったのですが、もしかすると、東京の、日本の何かをその向こう側にとらえていたのかもね。 最寄り駅はRER-C線(39- RER参照)のシャン・ド・マルス・トゥール・エッフェル駅。市内ゾーンですのでカルネなどメトロと同じ切符が使えます。メトロ利用の場合は、凱旋門とモンパルナスなどを結んでいる6号線のビラケム(Bir
Hakeim)がいちばん近いですが、お勧めは3号線・6号線が交わるトロカデロ(Trocadéro)下車。駅を出ると、トロカデロ広場に面して、海洋博物館などが入るシャイヨー宮(Palais
de Chaillot これも万博パビリオンの名残)があります。両腕を広げたようなシンメトリーのあいだを抜けると、広いバルコニーのようなステージがしつらえられていて、目の前に塔がそびえます。よく絵葉書などに写っている真正面の図はここからの眺めです。真下に入ってしまうと高さの感覚がわかりにくいので、ぜひ一度ここからの塔の眺望をどうぞ。 2006年2月、5年ぶりに展望台へ上ってみました。外国へ行くということ自体にまだどきどきしていた5年前のこととか、それからのいろいろなことを思い出しながら、すっかりなじんだパリの街を見渡して、またまた自分の立ち位置を確認したことです。 |
47- Tour
Eiffel (2) (エッフェル塔 その2) 欧州の建物は日本と異なって、地面と同じ高さを0階(フランス語ではRDC=rez-de-chaussée)と呼び、日本式でいう2階を1階と表現します。ビルではないエッフェル塔で何階建てという表現はピンと来ませんが、展望台が三層になっていて、それぞれ1〜3階と呼んでいます。1階(1er
étage)は地上57.63m、2階(2e
étage)は115.75m、3階(3e
étageまたは最上階le sommet)は276.13mのところにあり、塔の最上部は324mに達します。東京タワーが333mですから、わずかに低い程度ですが、パリではこれに匹敵する高層建築はせいぜいモンパルナス・タワー(29- Montparnasse参照 210m)くらいで空が広々としており、相当に高いところに来たなと感じます。 脚の中を斜めに上っていくエレベータ ところで東京タワーの場合、股のあいだにビルがあって、エレベータがそこから「腰」の部分にあたる大展望台へとまっすぐ上っていきます。これに対してエッフェル塔は、股下は何もない空間であり、エレベータらしきものも見えません(「股の下でね」といって待ち合わせた経験あり)。いったいどうやって上るのかずっと不思議でしたが、行ってみると実に簡単なしくみでした。脚(pilier)を斜めに上るエレベータがあるのです(4本のうち2階展望台行きエレベータは3コース)。地上でチケットを購入してエレベータに乗り込みます。六本木ヒルズなどで最近おなじみになっている上下二層式です。この箱は、途中1階に止まり、ひきつづき2階展望台まで行けます。傾斜部分では片側に歯車を噛ませてあるため、何となくがたがたするように感じられ、120年も前の建造物と思うほどにおっかない(汗)。1階には、塔の歴史に関する展示室などがあります。実はここには行ったことがないんですけどね。1階までなら4.20ユーロですが、そういうお客さんはどれくらいいるのかな?
地上から乗ったエレベータの終点である2階には、ショップやビュッフェがあります。ここの展望台は二層構造になっており、上層は窓や壁のない「屋上」状態ですので、開放感があって気持ちがいい。ここまで上ってくると、けっこう高く、パリを見渡すには十分・・・と一瞬思います。ここまで7.70ユーロ。本格レストランのジュール・ヴェルヌ(Jules
Verne)もこの階ですが、展望台からは入れず、地上から専用のエレベータで上ります。予約を忘れずに。2階までなら階段を歩いて上るという方法もあるにはあり、料金はかなり安くて3.80ユーロ(25歳未満は3.00ユーロ)。 カプセル状の小さなエレベータに乗り換えて、さあ最上階をめざしましょう。 頼りなげな鉄骨のあいだを、しかしかなりのスピードで上昇していきます。2階がどんどん下に離れていって、見上げてもまだ3階が遠いという状態は、高所恐怖症の私には軽いいじめかも(笑)。東京タワーの特別展望台(250m)もそうですけど、エッフェル塔の3階もさほどの広さはなく、天井も低い。窓の上には世界の主要都市までの方角と直線距離が国旗とともに記されていて、東京はたしか9700kmくらいだったかな。階段を上ると、ここにも「屋上」があります。転落防止のために鉄柵が囲っているためさほどの怖さはありませんが、鳥カゴの中に入ったようで、風の強い日はけっこうスリルがある。パリの街を一望できるこの最上階まで来ると11.00ユーロです。ちなみに東京タワーの特別展望台までは1420円ですので、為替変動ぶんを無視すればだいたい似たようなものですね。 これまで数限りなくパリの地図を眺めているし、ほとんどの地区を歩いているため、なまじのパリジャンより眺望のガイドができるかもよ(笑)。あらためて、パリの構造がよくわかる眺めではあります(ただしエッフェル塔自体が市内の南西にあるので都心方向は片方に寄っています)。でもね、何がすばらしいって、四方を見渡せばすべて地平線なんですよ! 東京は市街地が広すぎるのと海に面しているのとで、この感じは味わえないですよね。わー、地球って本当に丸いんだと妙に感激したりして。 エッフェル塔のてっぺんはこんなふうです 地上に降りたら、あらためて塔を見上げてみましょうか。何だかものすごい高さのように思え、あんなところに上ったんだと感慨を覚えました。理性と科学の時代とされたベル・エポック(Belle Époque 直訳すれば「美しき時代」で、文化・芸術や都市文化が花開いた第三共和政中期をさす)を象徴するような「作品」です。いかにも近代的なスマートさをもちながら、一方で旧約聖書のバベルの塔じゃないけれど、こんなものを造りはじめてから人類がおかしくなったんやないかな、とも。そういう意味でもモダン(moderne)ですね。エッフェル塔の周辺、シャイヨー宮やイエナ橋界隈はやっぱり非日常の世界。塔の足許付近には、「オニイサン」などと声をかけてインチキな絵葉書を売りつけるアラブ系のおっさんがうろうろしていたりして、パリ市内とはいえ、生活空間という感じはしません。でもやっぱり、一度は行ってみようね。なんていわなくても、パリ初心者なら真っ先に行くか。 |
48- La
Villette (ラ・ヴィレット) 要するに何のこっちゃわからん、というのが、ここを訪れてみての感想。公式には「自然と建築、余暇と文化が融合した世界でただ1つの複合体」なんだそうですが、それを聞いて理解可能な人は、たぶん日本にはいないでしょう(苦笑)。パリ北東郊にあるラ・ヴィレット(Parc de la Villette)は、総面積55haの開発地区というか巨大な公園で、イメージとしては博覧会会場そのものです。日曜日、家族で連れ立って遊びに行こうよという発想はかの地でも同様ですが、おそらくはそうしたレジャー客を取り込み、同時に産業振興を図ろうという当局の意図で開発されたものと思われます。 かつてここには、ナポさん(ナポレオン3世)の造営した屠殺場がありましたが、1970年代に再開発の決定がなされ、コンペの末に現状のような公園が生まれます。そのころ世界のどの都市でもおこなわれていた郊外設計の一例といえます。いわく、「過去と未来、パリと郊外、都市と自然、芸術と科学、精神と身体の出会う場」だそうで、謳うのは勝手だけど実態は大型公共事業というどこかの国みたいな感じでしょうな。同じ再開発地区でも、西郊のラ・デファンス(13- La Défense)が企業そのものを誘致してビジネス地区としているのに対し、こちらはあくまでレジャースポット。市街地に直接隣り合っている関係もあって「郊外」という感じすらしないため、どうもピンと来ないです。というか、古賀の感覚としては失敗作の印象ですね(すみません)。 都心からは、東駅・北駅を経由するメトロ5号線でポルト・ド・パンタン(Porte
de Pantin)下車、または同7号線でポルト・ド・ラ・ヴィレット(Porte de la Villette)下車。2つの駅はかなり離れているけれど、そのあいだの広大な土地がすべてこの公園になっています。裏ワザとしては、セーヌ右岸のバスチーユ付近からサン・マルタン運河を行く遊覧船カノラマ(Canauxrama 4-
Bastille参照)に乗り、トンネルだの水位調整型閘門だのを通り抜けて来ることもできます。 この公園のど真ん中をカノラマも着くウルク運河が通っており、周囲は幾何学的な直線で構築されてまさに博覧会場。私もつくりもののよさを認めないわけではないし、どちらかというと好きなほうなので、こういう設計でもいいと思うのですが、ちょっとだだっ広すぎるかな。運河の南側には、もと屠殺場だった大展示場(Grande Halle)や、現代演劇の上演で知られるパリ・ヴィレット劇場(Théâtre Paris-Villette)、文化・芸術を標榜するのに不可欠の音楽センター(Cité de la musique ここでいうcitéは複合的施設群のこと)などがあり、ポルト・ド・パンタン駅に接続しています。音楽センターには音楽博物館やライヴ会場もあり、クラシックからポピュラーまで対象は広いようで、いろいろな楽器をもった若者があふれていました。運河周辺には子どもの遊戯施設があり、親子連れにはいいでしょうね。運河の北側には、科学産業館(Cité des sciences et de
l’industrie)がどかんと建ちます。ガラスと鉄骨に囲まれたものすごい外観で、近づいてみると相当にでかい。中心は探求型展示室(Les expositions d’Explora こんな訳でいいのかな?)で、科学のあれこれを、とくに産業部門への応用に力点を置いて展示しています。どちらかというと日本人的な発想かも(笑)。展示はなかなかおもしろく、意外に広い。別料金で、スターウォーズなる映像アトラクションを見られるそうですが敬遠しました(うはは)。12歳以下の児童向けには子どもセンター(Cité
des enfants)があり、いろいろな遊具があるようで、たくさんの子どもたちでにぎわっていましたよ。児童向けのショップも愉快。 科学産業館とジェオード 生命倫理を学ぶ教材なんだけど、ちょっとすごい 科学産業館と向かい合うシルバーの球体は、ジェオード(Géode)なる未来型の特殊映像館。360度の球面全体がスクリーンになっています。 2006年になって初めてラ・ヴィレットを訪れたのは、はっきりいえばこの連載のため(!)なのですけど、まあ感心することはほとんどありませんでした。前述したように、つくりものは嫌いでないし、ラ・デファンスなどけっこう好きなのですけれど、ここは企画が古すぎる。私が少年期を過ごした1970年代、各種の絵本やテレビ番組が示した「未来都市」というのがまさにこんな感じだし、そのころ各種博覧会などで見つくしているため、陳腐化しているという印象は否めません(このところ多摩ニュータウンや筑波研究学園都市など70年代の開発地区に行っていることもあるか?)。そういうのが好きでたまらんという人はぜひどうぞ。でも、パリへ行こうという人はたぶんこの手は嫌いだろうし、優先順位からすればかなり後になるでしょうから(私の場合はたいてい行ってしまっているからな・・・)、今回のガイドはとくに毒にも薬にもならないことでしょう。ま、これもパリでございます。 |
49-
Visiter les villes de banlieue (パリ郊外探訪) パックツアーはもちろん、個人旅行の場合も早足で各都市をめぐる人が多く、パリにしばらくとどまってじっくり歩くというのは難しいでしょうかね。それでも、移動日をのぞいてパリに4日間以上滞在するのなら、ぜひ1日は郊外へのエクスカーションを交えましょう。日帰りで行ける範囲には歴史に彩られた見所がたくさんありますし、パリという大都会の空気に参ってしまったときのリフレッシュ効果もあります。巨大都市が当たり前の東アジアと違い、西欧の大都市はパリやロンドンでもそれほどの広がりはなく、都心から電車で30分も行けば田園風景が展開します。パリは、いまの福岡よりも市街地の部分は狭いのではないかな。 エクスカーションの第一候補は、西郊20kmほどのところにあるヴェルサイユ(Versailles)。いうまでもなく太陽王ルイ14世が造営した宮殿&都市で、その栄華をしのぶ格好のスポットになっています。都心からRER-C線西行きに乗り(複数の行き先があるので掲示に注意)、終点ヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ(Versailles Rive Gauche)駅で降りて「表参道」を少し行くと、目の前に荘厳なヴェルサイユ宮殿(Château de Versailles 直訳すると「ヴェルサイユ城」)があらわれます。チケット売り場に行列することが多いので余裕をもって行きましょう。広いよとは聞いているものの、こんなものかなと一瞬思いますが、けっこう奥行きがあり、何よりもその向こう側に、ふざけるなというくらい広大な庭園が広がっている。一辺が2〜3kmくらいあるので、地図を見て「歩けそうだな」と思ってもむやみに遠くまで行かないでね。 ヴェルサイユ宮殿の正面 宮殿にはいくつかの見学コースがあり、どれも1時間くらいはかかります。ぜひ日本語のオーディオガイドを借りて回りましょう。太陽王ご自慢の鏡の間(Galerie des Glaces)は、ため息が出そうなほどこてこてのキンキラリン空間。圧政に苦しんだアンシャン・レジームの人民からすると、何ちゅうものを造っとるんかという怒りもごもっともだね。私が研究していた時代でいえば、普仏戦争に完勝したプロイセンのビスマルクが、この間でヴィルヘルム1世の「ドイツ皇帝」即位式を敢行した出来事(1871年)がよく知られています。太陽王は王一家の私生活を公開して臣民の手本たらんとしたらしく、食事や、出産まで見せびらかしたんだそうですよ。何でも「ゆで卵の食べ方」が風雅で評判になったとか。彼の寝所というのも相当に立派で、ちょうど目覚めの時間帯には東側に面した窓からいっぱいの陽光が差し込むようにしつらえられていて、太陽王(le Roi-Soleil)の名と実とを合わせようとした形跡がみられます。歴史好きの人はエキサイトすること必至。 (左)鏡の間 (右)王の寝室 ル・ノートル設計の庭園に降りると、きれいに剪定された植物と幾何学文様の噴水・水路が織り成す西欧式庭園の極致。高校生のころ現代社会の教科書で和辻哲郎の文化論などを学んだとき、天与の条件に恵まれた日本人は自然と一体化した庭を造り、厳しい環境と格闘してきた西欧は理性でもって自然を克服するぞというので、このヴェルサイユ庭園を一例として、幾何学的な庭を造るのだというくだりがありました。いまでも得々とそういう話を語る人に出会うことがあるけれど、現地に行って思ったのは、これを実現したのは理性などではなく権力そのものだということ。はあ。庭園の先には大小2つの離宮(trianon)があり、これがまた見事です。大トリアノン(Grand
Trianon)はルイ14世の、小トリアノン(Petit Trianon)は同15世の離宮で、下世話にいってしまえば、14世は王妃を本宮殿に置いたまま若いおねーちゃんと大トリアノンにこもり、15世は(王様ご本人より数段有名な)ポンパドゥール夫人と小トリアノンで楽しく暮らしましたとさ。世界史の勉強で、同盟側の国ごとに結ばれた第一次大戦の講和条約の名称をいちいち憶えさせられて苦労した元・受験生も多かろうと思いますが、ヴェルサイユ条約(対ドイツ)、サン・ジェルマン条約(対オーストリア 後述のサン・ジェルマン・アン・レーで締結)、トリアノン条約(対ハンガリー 大トリアノンで締結)、ヌイイ条約(対ブルガリア)、セーヴル条約(対オスマン帝国)と、要するにぜんぶ「パリ条約」なんですな。なーんだという感じ。小トリアノンのそばにある「村里」(le Hameau)は、ルイ16世の王妃であるマリちゃん(マリ・アントワネット)がつくらせた農村の箱庭で、わざわざ庶民の生活を真似して遊ぶという悪趣味の名残ですね。ケーキを食べていればいいのに。 ヴェルサイユのひろ〜いお庭 RER-A線でラ・デファンス(13- La Défense)からさらに西へ進むと、これもルイ14世ゆかりのサン・ジェルマン・アン・レー(Saint
Germain en Laye)に着きます。このあたりはパリへ通勤する人に人気の高い高級住宅地として知られます。駅のすぐそばにあるお城が太陽王の生まれたところなのですが、ナポさん(ナポレオン3世)の趣味で国立考古学博物館(Musée
d’Archéologie nationale)になっています。歴史博物館の類は、その地の歴史や言語に親しんでいないとつまらないものですけど、先史時代に関してはどこもまあ似たようなものなので、土器や石器を見て妙に安心できます(笑)。 サン・ジェルマン・アン・レーの考古学博物館(左) 北郊のサン・ドニ(Saint
Denis)へはメトロ13号線で。都心から20分くらいで着くため、東京の感覚では郊外というのは違う気がしますが、地上に上がってみれば明らかに都心部とは異なる様相です。ここは中世初期から巡礼の地として栄え、歴代国王の墓所にもなりました。サン・ドニ大聖堂(Cathédrale Saint Denis)の地下墓所に入ると、薄暗い部屋に多くの棺(中身は空らしいけど)が並んでいてちょっと不気味です。ルイ16世とマリちゃん夫婦の棺も安置されています。2人の子であり、革命によって幻の国王になってしまった「ルイ17世」の心臓が、ミイラになって公開されています。かなり縮んでいますのでリアリティは薄いものの、すごいねえ。サン・ドニは、メトロ駅付近のフリーマーケットでも知られ、何を売っているわけではないけれど、にぎやかさに圧倒されました。日曜日にはパリ市内のお店が軒並みクローズになってしまうのに、サン・ドニの町は多くの人、それも若者があふれていて活気を感じました。この町には、1998年フランスW杯のメイン会場となったスタッド・ド・フランス(Stade de France)もあります。 にぎわいを見せるサン・ドニの市街 正面の尖塔が大聖堂 このほか、王侯貴族の別邸といった性格の郊外都市に、ランブイエ(Rambouillet)、コンピエーニュ(Compiègne)、シャンティイ(Chantilly)などがあります。RER-A線で行く東郊にはディズニーランド・パリがありますが、なぜかあまり評判を聞いたことがなく、どんなものか不明。何たって私は東京に30年以上住んでいるのにTDLに一度も行ったことないくらいですからねえ・・・。日本人がパリに行ってわざわざアメリカンでもなかろうと思う、のは違うのかな? 郊外エクスカーションでは、パックツアーを予約する際にオプショナル・ツアーを申し込むか、現地の旅行社で募集するツアーに参加すると、ガイドもついているし、いいかもしれません。最近はインターネットでも予約できるところが増えました。やや遠いですが、ロワール川の古城めぐりなどは、ツアーでないとなかなか難しいらしい。私は、古城よりも都市に関心があるので、お城の並ぶあたりからロワールを少し遡ったオルレアン(Orléans)へ行ったことがあります。パリ・オステルリッツ駅から急行で約1時間。とくに目的があったわけでもなく、ふらりと出かけたこの町で見たジャンヌ・ダルクの騎馬像が強烈なインスピレーションとなって博士論文を書いたんだっけ。ジャンヌさまさま。エクスカーションも行ってみるものでしょ? 調子に乗って、別の年にはサン・ラザール駅から北西へ1時間ちょっと、ジャンヌさま最期の地であるルアン(Rouen なぜか日本では「ルーアン」と表記されますが、絶対に伸びませーん)へ。オルレアンはロワール地方、ルアンはノルマンディ地方で、パリの属するイル・ド・フランスとは別なのですけど、鉄道がパリから放射状に延びているため、時間的な距離は短い。ただし、天空の城のモデルとして人気の高いモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)は遠いですよ。鉄道の乗り継ぎ、バスの直行便ともに片道4時間以上かかります。レンヌあたりに宿泊することを勧めます。 なお、郊外を意味するバンリュー(banlieue)は、それだけで「移民の多く住む、ちょっと物騒な地区」というニュアンスを含む言葉でもあります。私が専攻するフランスの学校教育でも、それが最大の課題となっています。2005年2月には、半ば好奇心でバンリューの数ヵ所を見物しましたが、先入観かもしれないけれど、やっぱりパリとは違う何かを感じますし、人々の言葉遣いや行動様式もちょっと・・・。でも、踏み込んでいうなら、それもパリ、いや欧州の現実だし、東京とか日本も構造的にさほどの違いがあるわけではない。外国を歩くというのは、そういう問題意識を研ぎ澄ませる機会でもあります。2005年10月、パリ東郊のクリシー・ス・ボワ(Clichy
sous Bois)で勃発した暴動は、各地に飛び火してしばらくつづき、日本でも「郊外」の問題が知られるきっかけになりました。むやみに怖がったり、偏見を撒き散らしたりする必要はなく、ほぼ通常の警戒モードでかまわないと思う(パリ市内でもどこでも同じで、そこそこ警戒心はもっていてくださいね)。空間的にも哲学的にも社会的にもふところが深く重厚な意味合いのパリ、です。やめられまへんな。 |
50-
Voyage à Paris (パリの旅) フランス共和国の首都パリは、いまさら説明するまでもない花の都、西欧文明の清華といえる古い都市です。 ローマ帝国時代、ガリアと呼ばれたフランスを南北に貫く道と、セーヌ川の舟運との結節点として要塞が築かれ(現在のシテ島 11- Cité)、そこを中心に小規模な都市が生まれました。10世紀にパリ伯が西フランク王を襲位すると(カペー朝)、以後長きにわたってフランスの首都として機能することになります。16世紀末にブルボン家のアンリ4世が宗教戦争を収拾してフランス王となり、いわゆる絶対王政のもとでフランスは英国と並ぶ西欧の強国としてその勢威を著しく拡大します。その後の中央集権化とともにパリの都市機能も格段に大きくなりました。アンリの孫にあたる太陽王ルイ14世は宮廷を西郊のヴェルサイユ(49- Visiter les villes de banlieue参照)に移しますが、パリの中心機能は衰えませんでした。1789年7月14日、セーヌ右岸にあるバスチーユ要塞(4- Bastille)を市民たちが襲撃した出来事をもってフランス革命が勃発し、同国のみならず欧州世界を近代市民社会という新たな時代へと突入させる一大契機となったことは周知のとおりです。 市民革命・産業革命を経て、近代都市としての基盤を整備し、現在のパリの原型をつくったのが、19世紀半ばのセーヌ県知事オスマン(George Haussmann 1809-91)です。オスマンは皇帝ナポレオン3世の厚い信任を得て都市の大改造を期し、主要道路の構築や都市機能の集約化などに尽力しました。それ以降、数次に及ぶ万博の開催をテコにインフラ開発の事業が推進され、20世紀を迎えるころにはほぼ現在のパリが完成されました。メトロ(25,26,27- Métro)の開通は1901年のことで、現在でも新線の建設が進んでいます。しかし、メトロ建設や、故ミッテラン大統領によるルーヴル美術館(23- Louvre)大改造事業にみられるように、19世紀のパリの外観を維持しながら内側を近代化するというのがコンセンサスになっています。エッフェル塔(46,47- Tour Eiffel)やモンパルナス・タワー(29- Montparnasse参照)などの展望台から市内を見渡すとそのことがよくわかります。美観を破るような建築物や派手すぎる屋外広告などが見当たりません。パリ市のエリアは100km2ほどで東京23区のおよそ6分の1、アジア的な大都市になじんだ私たちからすると、コンパクトに集約された都市という印象です。反面、郊外の衛星都市には工業団地などが開発され、ラ・デファンス(13- La Défense)やラ・ヴィレット(48- La Villette)といった未来都市型の新都心も周辺部に造成されています。 大きめの書店へ行ってみてください。旅行書のコーナーには、パリと名のつく書籍がたくさん並んでいます。いわゆるガイドブックだけでなく、パリの何か(quelques choses sur Paris)について思い入れたっぷりに語ったような著作が目立ちます。これほどまでに、日本人をして「何か語りたい」と思わせる都市は他にありません。おそらくニューヨークが二番手でしょうけれど、パリほどにはなっていないのです。若いころからそういう現象を、眉をひそめるほどではないにしても、やや皮肉な眼で見ていた私が、自分でもびっくりなのですが、こうしてパリのあれこれを語っています。何なんでしょうね、この現象は。 でも、だまされたと思って一度行ってみたら?
できることなら、4日以上の滞在を。主だった観光名所を回るだけでもかなりかかるので、せめて半日くらいは「何もない時間」をつくり、街角のカフェあたりでぼーっとするとか、もっと極端にいえばホテルの部屋で昼寝するだけでもいい。 パリのお気に入りスポットその1:リュクサンブール公園 私の場合、授業が終わって大学生が本格的な春休みに入る少し前、2月中旬〜下旬くらいに渡仏するのが通例になっています。大学生のころ初めて英仏へ旅したときには、2月上旬の往復で16万円くらいでしたが(それも香港トランジットの南回り。まだソ連があった時代です・・・)、いまは直行便で6〜8万円ほど。GWや夏休み、正月休みは倍以上になりますが、人が動かないときに動ける職業的な特権を生かしているのです。年が明けると格安航空券のショップをのぞいて適当な便を予約し、常宿(14- Espérance)に部屋を取り、地図やガイドブックを読み返してとにかくわくわくする・・・というパターン。親不孝なことに、いまでは福岡へ帰る日数もかなり短くなっていますけれど、パリへはコンスタントに1週間以上滞在するので、半ば帰省するような気分でもあります。ムフタール通り(30- Mouffetard)、ノートルダム寺院(11- Cité参照)、リュクサンブール公園(24- Luxembourg)、モンパルナス、レ・アルのフナック(19- Les Halles参照)・・・と、東京にいてもその景観を詳細に思い出せるような街区・スポットを歩いて、1年間の自分自身の足跡だったり、この都市を訪れるたびに思案する日本・日本人のあれこれだったりを脳裏でやりくりすると、心もアタマも豊かになったように感じるのです。 パリのお気に入りスポットその2:ムフタール通り さあ、荷物を仕立てて、パリへ飛び立ちましょう。季節はいつだってかまいません。世界的な大都会ですので、たいていのものは現地で手に入ります。私は、小さなキャリーバッグとリュックというのが定番のスタイルで、下着などは1回か2回、ホテルの部屋で洗濯していますし(コインランドリーやクリーニング店を利用したこともありますが、使い勝手がいまいちです)、シャツなどが足りなければ現地で買い足しています。たかだか1〜2週間の旅行ですし、あれもこれも用意しなくては!という発想はありません。米が食べたくなったら市内のあちこちにある日本or中華料理店に行けばよいし、テイクアウトの寿司なども簡単に入手できます。フランス全般に比べると、首都であるパリの物価は飛び抜けて高いけれど、それでも一部の食料品や酒類などは日本よりもずっと安い。ワインにかぎっていえば、同じクラスのものが東京の1/2〜1/3の値段で手に入ります。カフェやレストランで飲むと高いという向きには、そのへんのワインショップ(Nicolasなど)で購入し、「ホテルで飲むから開けてください」と頼んで持ち帰ればよいのです。フロマジュリ(チーズ屋さん)でカマンベールなど買っておけばいうことがないですね。 パリのお気に入りスポットその3:ルーヴル美術館(ドゥノン翼から中庭を見る) ミュゼ(美術館)めぐりをするのだとか、ひたすらショッピングするとか、史蹟探訪とか、人によって楽しみはさまざまですが、何パターンの趣向にも応えてくれるのがこの街のすばらしいところです。ですから、1人ないし数人のお友達と連れ立って行けば、ある部分を単独行動、別の部分を一緒に歩くといったバリエーションを楽しめます。食事は仲間と一緒のほうが楽しいので、その折に昼間の単独行動を報告し合ったら楽しいでしょうね。 最後の最後に1つだけ。パックツアーでも個人旅行でもかまいませんけれど、パリは1度目よりも2度目、2度目よりも3度目が絶対に楽しい街です。気に入っても気に入らなくても、ぜひまたおいでください。シャルル・ド・ゴール空港(1- Aéroport参照)からの帰途につくときには、もうすでに次回の滞在を思い描いて、楽しい気分になったりします。東京に帰ったら、今度はどんなおみやげ話をしようかな。 では、来年の2月ころ、左岸をうろうろしている古賀を発見したら声かけてくださいね。カフェの1杯くらいごちそうしますよ。 |