ゆっくりランチして、もう一度海岸へ行ってラ・マンシュ海峡を眺めると、よし14時だ。開店直後のインフォメーションで地図を入手して、港湾地区を海沿いに散歩しよう。想定した以上に腹いっぱいになったので腹ごなしの意味もあります。インフォメには30歳くらいの女性係員がひとりだけいて、まさに開店直後の様子。シティマップをいただけますかと訊ねると、シュアと英語が返ってきました。沿岸クルーズとか隣町へのバスツアーなんかもありますけど手配しましょうかというので、丁重にお断りします。「散策されるのでしたら、目の前のこの道路をそのまま進んでください。港のすばらしい景色が見られます」と。もとよりそのつもりですが親切なガイドで感心しました。お礼をいって出ようとしたら、聞くの忘れていましたという感じでWhere do you come from? ――From Japan! そういえばここ1、2年、フランス語のスキルがけっこう低下していて危機感が芽生えています。読むのは読んでもコミュニケーションする機会が激減したからな〜。英語力はかなり上がっているのでそっちに食われている気もします。ま、どっちが普遍的に有用かという観点でいえば問題ないのかもしれませんが。
ヨットハーバー
インフォメーションのあるところは砂浜ならぬジャリ浜と港湾施設との境目です。そこから南へ、海沿いに歩くと、まず現れるのはヨットハーバー。フランス語ではPort de plaisanceなので直訳的には「レジャー港」ですかね。防潮堤の内側にはそこそこの数の小型ヨットが繋留されています。海岸に沿ってフラッグポールが並んでいて、「世界の港の散歩道」とかいうネーミングがなされており、いろいろな国名が書かれていました。日によってはここに万国旗を並べて、ル・アーヴルは世界に開かれた港だという感覚をもたせるんでしょう。私は太平洋、黒潮側の人間ですのでたまに北陸とか山陰の日本海を見ると暗さとか厳しさを感じてしまいます。それって何らかのバイアスではありましょうが、ゆえなきことでもないはず。地中海をそれほど知っているわけではないものの、北海とかラ・マンシュ海峡など大陸北辺の海には日本海に似た印象をもちますね。経済史的には、地中海こそが世界だった古代が終わり、商業の軸がアルプス以北に転移して、中世後期にはハンザ同盟とかフランドル諸都市のように北海・バルト海側にネットワークが展開されます。ネーデルラント(オランダ)とかイングランドの発展はその文脈の中に位置づけられます。陸の大国であったフランスも、そのころアジアや北中米などの経営に乗り出します。ル・アーヴル港は16世紀初めにフランソワ1世の命で建設されました。西欧諸国の経済力がアジアを凌駕しはじめ、大西洋とインド洋とが経済的に直結された18世紀には、ル・アーヴルはその一大拠点として大いに栄えることになります。
欧港は世界へとつづく・・・
「1940年6月11日、ル・アーヴル港に停泊していたニオベ号は敵航空機の攻撃を受け、乗員乗客800名が犠牲となった」ことの追悼碑
ヨットハーバーを過ぎるとぼちぼち商港の諸施設が見えてきます。白い灯台には縦書きでLE HAVRE PORTE DE L’EUROPEとありました。港portにeがついた女性名詞は「門」「玄関」になりますので、「ル・アーヴル、欧州の玄関」ということか。2年前に訪れたオランダのロッテルダムはその名もユーロポートという巨大港湾を有しており、あれこそ欧州の玄関にふさわしいのでしょうが、ル・アーヴルにもその矜持があるんですね。やっぱり「(欧州最大の国!を自称する)フランスの港」であること、英国のトイメンであることが誇りの源泉といえそうです。欧港なんて日本語はありませんけど、訪問した記念にその呼称を進呈しよう。とかいう権限は当方にはないか。
(左)クルーズターミナル (右)「印象・日の出」の記念碑
その先がクルーズターミナル(Terminal
croisière)。ル・アーヴルはさまざまな名画の舞台になったことでも知られ、市内各所に仏英両語による説明板があって背景などを丁寧に解説してあります。いまクルーズターミナルのある付近はクロード・モネの「印象・日の出」(Impression, soleil levant)にゆかりの場所でした。ここで写生したわけではなくて、ある冬の朝のこのへんの海に着想を得て描いたとあります。モネは少年時代をル・アーヴルで過ごしており、この絵を描いたころはパリ付近にいたらしいので、思い出の地を訪れる機会があったのか、脳裏にある海の景観がそれだったのか。ともかくもこの絵が有名になり、彼を含む芸術運動の一群に印象派(Impressionisme)の名が冠されることになりました。この日は相変わらずの曇天で、いかにも西欧の真冬だなという感じですが、雲の切れ間から朝日が射してきたならたしかに印象的ではありますな(すみません、美術まったくわからんのでテキトーです)。
(左)何となく整いすぎている市街地 (右)ノートルダム大聖堂
けっこう大きなカギ屋さん 「錠」の部分をディスプレイされてもよくわからんが(笑)
インフォメーションのあたりから2km弱ゆっくり歩いて、ようやく商港の入口付近にやってきました。私の針路も南から東北東へ変わっています。セーヌ河口へとつながる部分で、市街地とその北側の山塊があるため港湾として適しているのね。歩行者の姿はほとんどなく、自動車もそれほどには往来していません。海岸を離れて市街地を回ってみました。パリ通り(Rue de Paris)に面してノートルダム大聖堂(Cathédrale
Notre-Dame du Havre)があります。16世紀創建で空襲に耐えた建物。このあたりはそれなりの商業地なのですが、人が歩いていないのとシャッター化した店舗が目立つのとで、何だか「かつて栄えた」日本の地方都市を歩いているみたいな気分になってきました。パリ通りをこのまま直進すると、さっきの市役所広場にいたります。真四角の市役所広場といい、そこにまっすぐつながる幅広のパリ通りといい、すべて直角に交わる東西の道路といい、西欧の都市にはほとんどみられない条里制的な構造になっているのがすぐにわかります。札幌とか名古屋の感覚に近いですね。大聖堂の裏手に自然史博物館(Muséum d’histoire naturelle)があって、いい感じなので見てみようかと思ったら、リニューアル工事中で春まで閉鎖中だって。玄関先の由緒書きを読んでみると、もともと裁判所だったが第三共和政の時代に博物館に変わってうんぬんとあります。
ル・アーヴル港の枢要部付近 ピサロが「河口の光」(Lumière de
l’estuaire)を描いたあたり
海岸ぺたに戻り、港に沿ってまた歩きます。カフェみたいなのもなさそうだしなあ。人工物だらけでヒトケのあまりない海岸って、東京湾でもよく見ますよね。ケンカ上等の兄さんたちがいっぱいいる、ということはありません。フェリーがいくつか繋留されていました。フェリーターミナルはもう少し先なので、鉄道でいう引き上げ線みたいな場所でしょう。ここル・アーヴルから英国のポーツマスまでの路線は幹線ルートです。
この時間は無人と化す魚市場 コキーユ・サン・ジャック(coquilles St.
Jacques)って何じゃと思うでしょうが、ホタテのことで、フランスでは非常にポピュラーな食材
何だかんだで4kmくらい歩き、これまた長方形に整いすぎた運河(Bassin du Commerceなので「商業池」? このページ最上部、タイトル横にある写真)を回り込んで、午前中の歩きはじめに通過したストラスブール通りの裁判所前に出てきました。もう16時近いので繁華街があれば人も集まっている時間帯なんだけど、どこなんだろう。
同じところをひたすら歩いてもくたびれるだけなので、市役所前まで1駅トラムに乗り、その裏手に出てみました。ああ、こっちだったのか。町歩き用のセンサーがついているとかいうわりに今日は感度が低かったなあ(汗)。銀行とか各種商店が見えてきます。プランタンがある! モノプリがある! 縦横に整えられた街並も港の様子も非常におもしろかったですが、何時間も人の気配のないところを歩くと、さすがに商業地が恋しくなってきます。私も消費社会の住民ですので。
市役所裏 お、ようやく商業地のニオイが!
エスパス・コティ
モノプリの入っている建物はエスパス・コティ(Espace
Coty)というショッピングセンターでした。おお、人がいるじゃないか(当たり前だ)。それなりの都市を歩いてマクドナルドもスターバックスも見かけないというのは久しぶりで、逆に心配になってくるというのは変でしょうか。ともあれエスパス・コティには若い人もたくさんいて賑わっていました。無料の、たいへん清潔なお手洗いがあったのにも感心。とはいえ何かを買うでもないので、16時20分くらいで切り上げます。市役所裏は各系統が集まるバスターミナルのようになっていて、駅まで乗ろうかと思ったもののなかなか現れないのでトラムに切り替え。低学年くらいの男の子たちがオテル・ド・ヴィユ(Hôtel de Ville 市役所)という電停名をオテル・ブテイユ(Hôtel Bouteille 瓶役所?)と言い換えて大笑いしており、くっだらない言葉に反応して騒ぐのはいずこも同じだなあと。トラムに乗って戻った国鉄駅が町はずれの場末の感じなのは、日本の地方都市でもしばしば見かけるパターンです。構内に1軒だけセルフ式のカフェがあり、出発を待つ人たちが何組かありました。当方もカフェ飲んで休憩。17時03分発のインターシティ3128便に乗ると19時10分にサン・ラザールに着きます。
インターシティに乗ってパリへ帰ろう2013
午後歩いてきたル・アーヴルの中心部はユネスコの世界文化遺産に登録されています。町が古くて伝統的な景観を残しているから、ではありません。この町は第二次大戦末期の1944年、空襲によって壊滅させられました。長い歴史を持つ港町は焦土と化したのです。現地の説明書きを読んでもそのあたりをはっきり書いていないのですが、ここを空襲し破壊したのはナチス・ドイツではなく英軍でした。ベル・エポックの栄華もいずこへ、フランス第三共和政はドイツの侵攻を受け1940年6月に降伏しました。ヴィシーに対独協力的な政権ができ、パリを含むフランスの北部はドイツ占領地域となります(私たちに関係ないことはなくて、フランスが「仲間」になったことで日本軍は北部仏印に進駐し、太平洋戦線へとつづく流れがはじまりました)。ル・アーヴルは、英本土への侵攻を企てるドイツの最前線基地であり、大陸側の防衛拠点になります。アメリカの本格的な参戦もあって大規模な反攻に出た連合国は1944年6月、ノルマンディー作戦を発動して北仏に上陸しました。ドイツ軍は重要拠点ル・アーヴルをかろうじて死守しましたが、英国の空軍はこれを掃討し、上陸した連合国軍への補給路を確保するため、同年9月に大規模な空襲を敢行したのです。戦略なのか戦術か、ともかくもル・アーヴルの住民は5000人もが犠牲となり、住居は失われました。終戦後にル・アーヴルの再建を託されたのは建築家オーギュスト・ペレ。条里制を思わせる直線的な街並、不自然なまでに整った景観は、彼の構想によって生まれた「戦後の景観」です。2005年に認証された世界遺産としての呼称はオーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル(Le Havre, la ville reconstruite par Auguste Perret)。空襲の惨禍から都市計画で再建された都市なんて世界中にいくらでもあり、名古屋なんてかなり見事なものなので、この町の何がとくにすごいのか私にはよくわかりません。敗北・被占領・対独協力、でも国際法的には勝利して国連常任理事国になったという第二次大戦の顛末を、フランス人はいまだに正面からは扱いかねている面があります。復活した欧港の意味を彼ら自身に説明してもらうのにはもう少し時間がかかるのかもしれませんね。
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